すべてが僕のチカラになるブログ。

「人生」「物語」を中心テーマに、日々感じたこと、考えたことをなんでも書き綴ります。

イブの時間ー劇場版

元々は短編連作でウェブ公開されたアニメーション作品の劇場版。

 

ストーリー

未来、たぶん日本。
ロボットが実用化されて久しく、
人間型ロボットが実用化されて間もない時代。

 

ロボットを人間と同じように扱う人間(作中ではドリ系と称されている)に対して差別的な時流。ロボットと人間を区別しない、「イブの時間」という喫茶店で繰り広げられる人間とロボットの群像劇。

 

数年前にもDVDをレンタルして視聴したのだけれど、当時はそれほど印象に残らなかった。当時の自分の感受性の貧しさ、読解力のなさを痛感させられる。設定の部分にツッコミどころがないわけではないけれど、色々と感慨深い話で大好きになった。

 

タイトルからクリスマスに関係ありそうな気がするけれど、全くそんなことはなかったりする。なんとなく、クリスマスに見たい気分だったのだけれど、もたもたしているうちに年を明けてから再視聴するに至った。

 

自分の中で突き刺さったシーンは大きく3つ。

 

ピアノを挫折してしまった主人公が、色々な思いを振り払って一心不乱にピアノを演奏するシーン。

自分は、葛藤の中でもがくキャラクターが何かをきっかけに吹っ切って、自分の思うままに行動する瞬間にもの凄くカタルシスを覚えるタイプなんだろうと気づいた。「葛藤する時」というのは、大概が頭でモノを考えている場合なんだと思う。自分が満たしたい欲求に大して、理性や現実的な観点がノーを突きつけているような状態。それらから解放されて、ただただ純粋に「ピアノを弾くのが楽しいから」という理由で小気味好く鍵盤を叩くシーン。その純粋な気持ちの演奏が周囲の人間を笑顔にしたり、感動させたり、認められたり。

 

不法投棄されたロボットが喫茶店に訪れるシーン。

「記録」と「記憶」の違いについて考えてみると、そこに人間らしさが現れているような気がして色々と面白くもある。機械がしていることはあくまで「記録」なんだろうけれど、そこに「思い」みたいなものが宿ると「記憶」に変わるんだと思う。主観の入る余地のない「記録」は正確さが担保されているものだけど、主観が入る「記憶」は大概事実との隔たりがあったり捏造されていることが多い。

不法投棄されたロボットとのやりとりはコメディチックでありながらも、切に何かを訴えかけられる。消去された記録を引っ張りだそうとした結果、ショートしてしまったロボットを喫茶店の女性店主凪が抱きしめるシーンはグッときてしまう。

抱きしめるって言う行為は、その人の悲しみや怒りや憎悪や寂しさなんかの、凍てつくような負の感情を溶かすことのできる、限りなく相手に寄り添うスキンシップなんだと思う。「あなたは一人じゃないんだよ」って、こんなにも的確に表現できる行動方法は、きっと他にない。

 

主人公の友人が、長年に渡って抱いていたロボットに対する疑念が晴れるシーン。

果たしてロボットに感情はあるのか、という問いの回答シーンとも言える。ずっと秘められていた思いを告げられるという場面は、それだけで泣けてくるのだけれど、なぜかロボット相手だとさらにグッと来てしまう。これって多分、エヴァンゲリオン綾波レイが笑ってくれるあの名場面に近いものなんだと思うんだ。

何を考えているのか全然分からない相手とコミュニケーションとれたことがとにかく嬉しくて、自分の投げたことに、自分の期待した反応が返ってくるって、こんなにも嬉しいものなんだって感じさせられたりする。

 

結局、人間は何かしらとコミュニケーションを取りたいんだよねぇ。

 

感情の根源というか、第一次の部分は「寂しさ」にある、という記事を読んだことがあるけれど、つくづくほんとにそうだよなぁと思わされる。自分のしたことに対して、何の反応も返ってこないって、きっと一番寂しいことだよ。だから人は山に登ったら、ついつい叫びたくなるんだと思うんだ。

 

アンドロイドを突き詰めて行く過程では、人間というものに対する理解が欠かせないわけで。人間に似せれば似せるほど、人間との違いが浮き彫りになってくるのがまた面白い。その一方で、限りなく人間に近づいたアンドロイドは、表面上人間との違いがないようにも見える。そうなると、人間とアンドロイドの違いは、もう内面の部分だけで、本当にそれを感じているか、抑制できない気持ちがこみ上げているのかどうかに委ねられるんじゃないかな。

 

結局のところ、<人>から<限りなく人間に近づいたアンドロイド>を差し引いた時に残る部分、<限りなく人間に近づいたアンドロイド>が模倣しきれない部分っていうのが「人間らしさ」ってことになるんだと思う。多分それは本物の感情だとか不完全さってところに行き着く。

 

それはさておき、主人公のホームメイドであるサミィ。

普段の感情を微塵も感じさせない事務的な対応と喫茶店での人間味溢れる反応とのギャップ萌えが凄過ぎる。

あんな描かれ方をされたら、もう本当にアンドロイドと人間の境目はないように思えてしまうんだ。自分の中でいくつかあるキャラの使い分け、恥じらい。

 

「ユーモア」と「恥じらい」の感覚って、一番人間味を感じさせられるような気がして、ここはそう簡単にはAIに理解できない部分だと思うんだよね。

 

とにもかくにも、ロボット(AI)を通してあらためて人間を考えさせてくれるいい作品。今はまだSFの範疇だけど、ロボットの技術はどうやらものすごい勢いで進化しているみたいなので、近い将来作中のような未来がやってくるかもしれない。