すべてが僕のチカラになるブログ。

「人生」「物語」を中心テーマに、日々感じたこと、考えたことをなんでも書き綴ります。

表現するとは一体なんなのか?

そんなことを漠然と考え始めたのが、だいたい一年くらい前のことで、ここ最近は「表現する」ってことを、それなりに意識して生きているように思う。

 

表現者」なんて言葉にすると、芸術家だとかクリエイターだとか、なんだか随分と格好の良い職業に就いている人達だけを指すような感じがするけれど、生きていれば誰だって「表現者」なのだとか。

 

見た目にはパッとしない地味な仕事も表現の一つだし、一見すると何一つ表現していないように映る「引き篭もる」という行為一つとっても表現と言えるらしい。

 

とある脚本家のコラムにそんなことが書かれていて、僕は少しだけハッとさせられ、表現ってそもそもどういうことなのか、なんてことを頭の片隅で考えながら生きていた。

 

僕なりに考えた「表現って一体なんだ?」の答えは「自分の思考や感情を他人にも認識できるように何かしらの形にすること」だった。

 

絵を描いたり、音楽を奏でるという如何にもそれらしいことから、日常で頻繁に行われる会話や着ている服や髪型に至るまで全て表現。料理を作るということも表現ならば、食べるという行為もまた表現と言えるし、もっというならば空腹時にお腹がグーッとなるのも表現の一つなのだと僕は思っている。

 

そして、その表現が素直にできなかったり、あるいは表に現れないように隠そうと努めたりするのが人間の悩ましい所であり、愛すべき面白い部分でもあるのだと僕は思う。

 

相手に正確に意図が伝わるか、伝えるかは別として、とにかく何かしらのアプローチが行われたならばそれは表現と言って差し障りがないように思う。

 

そんな風に、僕なりにではあるが結論を出した「表現」というものに、最近新たな解釈が加わった。

「おとなの小論文教室」というものに書かれていた一文。「表現」っていうのは「生きる」っていうことにものすごく似ていると思うんです。

 

うーん、なるほど。

 

多分、「生きる」っていうことも「表現する」っていうことも、感じとってくれる相手がいないと成り立たないことなんだよなぁ。

 

僕なりの解釈でいくならば、仮に自分一人で料理を作ってそれを自分一人で食したとして、それが「表現」になるかと言われれば恐らく否ということになるわけで。「生きる」という行為もまた、自分を認識してくれる「誰か」有りきで成り立っていることなんじゃないだろうか。

 

少し小っ恥ずかしい言い方をすると「生きる」=「存在の証明」だとかいうことになっていくわけで、「存在の証明」=「表現する」なのだと思う。人は日々の中で、無意識に表現を行い自身の存在を他人に証明している。そういう表現の一つ一つを意識して生きてみると、結構面白かったりもする。

 

この文章もまさに表現方法の一つなわけで、まだまだ上手く纏められないし、書くのも大変だけれど、色々と発見できたり、思考が整理されたりで面白い。

 

なんだかものすごく厨二っぽい内容になってしまったけれど、僕はもうしばらくこんな感じで生きていくのだと思う。(もしかすると死ぬまでずっとこんな調子かもしれない)

 

そんなわけで、今日も僕はそれなりに生きていて、ここに存在している。