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「人生」「物語」を中心テーマに、日々感じたこと、考えたことをなんでも書き綴ります。

相手のことを大切にしているつもりになっていないか、考えてみる

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「大切にする」と「執着する」この二つは似ているようで、もの凄く違うことだと思う。

 

どこがどう違うのかと問われても、明確に言葉にして答えるのは難しいのだけれど、こういう近似値にいるようで、真逆の方向に存在している物や概念というのは往々にあるように思う。

 

執着するということは、少なからずその人にとって対象となるものが人であれ何であれ『かけがえのない大切な存在』であったということだと思うのだけれど、一体何が大きく違っているのだろうか。

以下は、あくまで僕の意見として読み進めてもらえればと思う。

 

「大切」からは、伸び伸びとした自由な印象を受ける。対して「執着」からは、何かに囚われているような型に嵌め込まれているような窮屈な印象を受ける。

 

例えば、落とすと壊れてしまうかけがえのない物を持っていたとする。

「大切」はそっと優しく包み込むようにしながら、落とさないように注意すること。
「執着」はぎゅっと強く握りしめて、落とさないように注意すること。

 

というのが、僕の思う両者のニュアンスの違い。

 

ここから思うのは、両者の違いは対象となるものとの距離感なんじゃないかと思う。

「大切」は付かず離れずの絶妙な距離感で、相手の気持ちに寄り添い、受け容れてあげること。

「執着」は相手と自分を重ね合わせ過ぎて(もう少し言うならば、相手を自分の一部として取り込んでいるような状態)、相手の気持ちを自分の気持ちで塗り潰したり、無理やり自分の型に嵌めこもうとするような状態なんだと思う。

 

執着は、大切に思っている何かを失うことによる不安や恐怖心、あるいは失ってしまったこと対する深い後悔や憎しみなどのネガティブな思い込みによって作られた負の念。
「執着」の思いが自分の型に無理にはめ込もうとする行為に繋がってしまうのも、相手が理想通り、あるいは自分の理解の範疇に収まっていれば安心できるからなんじゃないだろうか。理解の範疇の枠を越えると遠くに行ってしまうような不安を抱えることに繋がる。

 

ここまでの分析から「執着」はより利己(エゴ)が強く、「大切」は利他が強いように感じられる。


厄介なのは、執着は常に大切にしたいと思うモノゴトに付き纏っているということ。そして、気をつけなければ「大切」にするってことと「執着」するってことを履き違えてしまいがちだということ。束縛なんかは明らかに「執着」からくるものだと思うのだけれど、やっている本人からすれば「大切」にしているつもりだったりする場合も往々にある。

 

何かに「執着」するということが、必ずしも悪いとは言えない。「執着」するということは、それだけ「特別」に感じていたり「大切」に思えているってことでもあると思うから。すごく人間的であるとも思う。

 

ただ僕は、かけがえのない存在やモノゴトに対して、「執着」するのではなく、できれば「大切」にして生きたいと思う。