すべてが僕のチカラになるブログ。

「人生」「物語」を中心テーマに、日々感じたこと、考えたことをなんでも書き綴ります。

イエスマン “YES”は人生のパスワード

8年前くらいに観たコメディー映画。amazonプライムビデオにて高レビューだったのとポジティブになれそうだからという理由で再度試聴した。

 

8年前の僕は映画のタイトルや冒頭から終盤までの流れで「YESと答えておけば、人生何もかもうまく行ったww」的なラッキーマンの物語だと解釈していたのだが、全然違った。自分の洞察の浅はかさが情けなくなる。

 

☆物語要約

半年前の離婚を起因に友人や同僚の誘いを断り続け、半ば引きこもりのような生活を送る主人公。あらゆることを拒絶する「NOマン」の主人公が、とある自己啓発セミナーへの参加をきっかけにあらゆることを受け入れる「YESマン」へと変貌を遂げる姿がコメディーと哲学的観点から描かれる物語。

 

 

冒頭、主人公が親友の誘いを断ることに苦心する姿がユーモラスに描かれる。

あらゆる物事に言い訳し、理由をこねくり回しては「NO」を突きつけてきた主人公がかつての自分と重なった。

 

ああそうか。「NO」とはつまり拒絶することなんだなと、ものすごく当たり前のようなことに気づかされた。

そして、引きこもるという行為は身の回りのあらゆることに「NO」を突きつけ、拒絶することに他ならないように思う。その「NO」は自分自身にも及ぶのかもしれないし、僕の場合は自分自身にも及んでいたような気がする。

 

常識とか、誰かの打ち立てた理論だとか教訓ばかりにとらわれるだけじゃなく、もっと自分の気持ちに正直に、素直に生きることが凄く大切なんだと感じさせられる。

偏見を捨て、恐怖心を捨て、羞恥心を捨て、一歩踏み出したその先に自分が思いもしなかった楽しさや面白さがあったりする。

心の底から「YES」を引き出すことこそが、人生を肯定することであり、僕たちが真に望むものの正体なのかもしれないと、そう思わされた。

だからこの物語は決して「NO」を否定しているわけじゃないんだよね。

心の底からのYESは「本当に嫌なことにはNOを突きつけられる、自分の意志(本心)」がありきなわけだから。

そして、maybe(多分、かもしれない)という曖昧な答えも、決して悪くない。

 

哲学的な観点から非常に面白い本作だけど、何気なく描かれたシーンが後々問題を解決する伏線になっていたりと脚本の練られ方、コメディーとしての仕上がりも申し分ないので機会があればぜひ試聴してもらいたい。

 

特に終盤、病院を抜け出した主人公が彼女の元へとバイクで疾走するシーンは必見。

 

ちょっと気持ちが落ち込んで、身の回りのことや人(自分自身も含めて)に「NO」を突きつけ塞ぎ込んだ自分がいる時に、少し元気と勇気がもらえる、前向きになれる物語。

 

 

僕たちは世界を変えることができない

タイトルに惹かれて視聴した7年前公開の映画。

 

向井理が演じる医大医大生の主人公がカンボジアに学校建設の計画を通して、自分のちっぽけさ、自分という人間がどんなに泣こうが喚こうが叫ぼうが世界に何ら影響を与えることはできないということに気付かされながらも、その現実を受け止めて仲間たちとともに一歩成長する青春の物語。

人のために何かをすることの難しさ、人のために何かをできる素晴らしさ、生きることの喜びを感じさせてもらえる。

 

以下、詳細部分で長いのここまでの文面で気になった方は映画を観ていただき、その後ででも読んでいただければと思う。

 

主人公が「何か人とは違う特別なことを成し遂げたい」という青臭くて軽薄でありがちな動機から始まったカンボジア学校設立計画。

建設費150万円を集めるために、資金調達やメンバー集めに奔走する序盤。

とにかく気持ちが先走り過ぎたり、物事を深く突き詰めて考えずに動き出した結果抜き

差しならない状況に陥ったり、あるいは観光旅行気分で向かったカンボジアの現実を目の当たりにして傷心したりと、なんだか昔の自分(決してこんな行動力はなかったけれど)を見ているみたいで、世界的に見れば非常に恵まれた環境にある日本の若者の浅はかさみたいなものを如実に突きつけられているようで、歯痒く痛々しくもあった。

それと同時にこの無謀な行動力が若さのエネルギーなんだよなぁとも感じさせられるのだけれど。

 

慈善活動を行う時には常に「感謝されて気持ち良くなろうとしている自分」との戦いがあるように思う。真に相手を思い遣る気持ちよりもそれが先に立ってしまうと、ボランティアは体を繕っただけの空っぽな偽善に陥りやすいように思う。

この辺りの主人公達の浅はかさを目の当たりにした阿部寛演じる解剖学の先生は医学生の技術向上のために並ぶ検体を前に「未熟な学生のためにメスを入れられた上、一切の金銭ももらえない。検体こそ偽善の入る余地のない真のボランティアだ」と糾弾する。

そしてこれはボランティアに限った話じゃなく、大切な人(家族や恋人や友人)に何かしてあげたいと思った時にも通じる話だと思う。

良い行いをしたり、感謝されて気持ち良くなるのは人間が社会を形成する上で非常に重要な心理だから決して否定されるものではない。重要なのは相手と自分、両者が特をできる喜びの擦り合わせみたいなものだと思うけれど。

 

原作者の実体験がベースになっているらしく、カンボジアの現状を描く部分は非常にドキュメンタリーチックになっている。特に通訳謙ガイド役として登場するカンボジアのおじさんが非常に良い味を出している。

 

物質的な貧しさは決して心の貧しさに直結せず、むしろ大変な境遇の中で助け合いの精神、豊かな心を育むことにも繋がる。

 

そんなことを感じさせられた。

 

最後に、やっぱりタイトルがとても良い。

 

僕たちは決して世界を変えることができない。

 

そんな大きな力を持った特別な存在じゃない。

 

けれど、それでも、誰かのために必死になることはできる。

 

目の前の大切な人をたとえ一時でも笑顔にできたなら、喜んでもらえたなら。

 

それは世界を変えられないちっぽけな存在の僕たちにとって、最高の幸せに繋がるはずだ。

 

 

 

 

山登りは人生の縮図ようで

人生初の登山に出かけた。

 

三重と滋賀の境目にある御在所岳。標高は1212メートルと富士山の約3分の1程度。

 

トレッキングシューズもロクに買わず、普段履きのランニングシューズで「ハイキングを楽しもうのノリ」で出かけた僕はものの数分で現実の厳しさを思い知らされることになった。

 

日常ではまず遭遇しないだろう急斜面、木の根っこがむき出しになり一向に安定しない足場、踏み外そうものなら生きては帰れないだろう切り立った崖、人間の存在のちっぽけさを知らしめられるバカでかい岩。

 

なんでもなさそうな砂利道に足を取られ、ランニングシューズの無力さと己の愚かさを痛感させられながら、それでもしばらく進み続けていると、目の前の障害を一つ一つ越えていく楽しさが生まれ始めた。

 

不思議と、目の前の物事に必死になっていると人間余計なことを考えなくなる。

 

過去のどうにもできないアレコレや、将来の不安や、恋人が一向にできる気配がないだとか、そういう諸々の雑念が消えてなくなり、ただ山を登ること、目の前の足場に一心不乱に集中する。

 

今ココに集中し、大自然が日常を忘れさせてくれて、自分の心の中に溜まっているなんだか色々と良くないものを浄化してくれる。

 

山ですれ違う人達が非常に開放的で、接して気持ちいいのは元々余裕のある人達ってことに加えて、雄大な自然に触れて心が洗われているからなんじゃないだろうか。

 

あいにく、天候は悪く頂上に登っても一面真っ白の景色だったため、達成感はやや薄かったものの、山登りいいなぁって思えた。

 

工事中のためロープウェイもレストランも休止という絶望の状態の中、死に物狂いで帰り道を進んだのも、いい思い出。

 

湿気でベトつく不快な汗を温泉で流し、一食抜いてペコペコになったお腹をトンテキで満たし、疲労困憊の体をベッドに横たえグッスリ眠り、翌日襲ってきた筋肉痛にまいる体をマッサージチェアで癒やす。

 

辛いことや苦しいこともたくさんあるけれど、その分嬉しさや喜びも味わえて、山登りはまさに人生の縮図のよう。

 

あとはこの筋肉痛の体を引きずって、バイトを無事終えられるかどうかだけが現状の問題…

理想や夢を見たっていいじゃない。だって、人間だもの

前評判の高いものというのは、得てして上がり過ぎたハードルのせいで思ったよりそれほどでもないなと感じてしまうことが多々ある。

 

逆にそれほど期待していなかったものが予想以上に面白かったりすると「おっ」っとなる。

 

 

最近観ているアニメは、わりとその「おっ」の部類に入るもので(とは言ってもそれほど数多く観ているわけでもなく、面白くないと感じたものは見切っているのだけれど)、僕の日常にささやかな彩りを添えてくれている。

 

「結城ゆうなは勇者である」(以下ゆゆゆ)はその一つで、自分好みのキャラクターがいるという理由から見始めたため、シナリオにはさほど期待していなかった。

 

数話観て、おそらくこれは「魔法少女マドカマギカ」からかなりインスピレーションを受けた作品だと気づく。「マドマギ」に関しての僕の感想はむしろ前者で、前評判がすごく、ハードルを上げて視聴した分、今ひとつ心に突き刺さらずに終わった感があるのだけれど、それは当時の自分の感性に問題があっただけなのかもしれない。

 

「マドマギ」、「ゆゆゆ」は共に「無垢な少女達が大切なものを守るために残酷な現実と向き合わされる」物語なんだと思う。とりわけ美少女という希少性が非常に重要。純真さと神聖さ(男から観た場合は特に)の両方を兼ね備えており、それが十代のある時期のみしか与えられない儚さや希少性こそが「少女」なんだなぁと思うんだよね。そこに美しいが組合わされば、そりゃもう神々しさを帯びるわけで、美少女達が奮闘する姿というのが、オタク心をくすぐらないはずがない。

 

身も蓋もない言い方をしてしまえば、美少女達が繰り広げる物語だから成り立っているわけだし、アニメだからこそ許容されるキャラクター性(登場キャラ全員が嫌な部分一切なく思いやりを持ったいい子ばかり)だとか、ご都合的な展開もあるんだけれどね。数年前の気持ちが擦り切れてやさぐれていた自分では、ちょっと感動できなかっただろうなコレっていう。

 

それでも感動しちゃうのは、大切な人を守りたい、大切な人と心を通わせたいって望んでる自分がいるからなんだろうなぁ。それはやっぱり全ての人が持ってるものだと思うんだよね。孤独な人や孤独になりたいと本気で思っている人がいたとしてもね。

 

なんだか、登場キャラクター5人にそれぞれエピソードがあって、どのキャラクターのパートにもグッときてしまうものがあったりもするんだ。

多分、それぞれのエピソードどれをとっても、誰かとの繋がりを主軸に描いているからなんだろうな。

 

各キャラクター(声優)バージョンのEDソングが用意されていたり、最終回では全員で合唱したり、同じ音楽でも歌い手ごとに特徴があったり、個性とからしさとかって、凄く良いなぁ、尊いなぁって感じたり。

満開システム(勇者の力が覚醒することと引き換えに体の機能が欠損してしまう)をいつか作りたいと思っているオリジナルのRPGに組み込めないだろうかだとか、なんだか色々なことを感じさせられたなぁ。

 

そうそう。勇者といえば、ドラクエ。最新作で「勇者とは最後まで諦めずに立ち向かった者のことです」みたいな台詞を言われるシーンがあった。

「ゆゆゆ」も最後まで諦めずに戦った「結城ゆうな」のくじけぬ心が世界と日常を救った。

 

自分は、勇者にとって一番必要な素質は「勇気」なのかと思っていたけれど、最近は少し違うのかもと感じてい

る。一歩踏み出すとき、人生の岐路に立たされた時に決断する時に「勇気」はもちろん大事だけれど、それ以上にどんな結果や困難が待ち受けていても最後まで諦めず、くじけずにやり通す「覚悟」の方が勇者にとって必要な素質なのかもしれない。

 

人生には苦難と困難がつきものだから(もちろん楽しいことや素敵なこともある)、くじけず、最後まで諦めない「覚悟」を持った、自分の人生の勇者でありたい。

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人はなぜ嘘をつくのか

以前、そんな見出しの書かれている雑誌を読んだ。

 

端的に言うと、嘘をつくことで何かしら利益が得られると思っているからというのが大体の理由。嘘をつく理由の役90パーセントは自分のためであり、約5パーセントは他人のため、残りの5パーセントは何故嘘をついたのか自分でも良くわからないというグラフが載っていた。

 

90パーセントが利己のために作られる嘘の中で、他人を庇ったり気遣ったりするための5パーセントに人間の救いを感じられたような気がした。

この5パーセントがあるから、僕は自分も含めて人間というものを心底嫌いにならずにいられるのだと思う。

知らないふりだとか、気づかないふりだとか、真実を伝えないということをあえて選択するのは、思いやりの中から生まれるものだと思うから。(これらが嘘であるかどうかは別として心はざわざわするよね)

 

自己保身だとか見栄だとか人間関係だとか、大人になれば、社会で生きて行くために時として嘘をつく必要にかられることがある。その一方で、嘘はいけないことだと教育もされる。嘘はアウトだけど、脚色(いわゆる盛るという行為)はセーフと見なす動きもある。虚偽の情報を伝えることは当然嘘になるけれど、真実を隠すことは嘘ではないという見方もある。

 

この辺り、何が嘘で何が嘘じゃないか、もの凄くグレーで曖昧だったりする。着目すべきは、嘘か嘘じゃない云々よりも、その情報によってもたらされた結果なのかもしれないけれど。

 

今ほぼ日で掲載されている「嘘ってなんだ?」の中で、マジシャンの人が嘘にはコストがかかるから、正直に生きた方が得をする可能性が高いという見方も非常に面白い。

 

嘘をつくことはいけないかどうかは別として、嘘をつくと心が落ち着かないし、嘘を突き通す人生なんてのは、なんだか悲しい気もする。人は他人だけじゃなく自分自身をも欺き通すことができてしまうからね。

 

なるべくなら、自分にも他人にも正直に生きられるの良いと思うんだ。

 

 

子供の頃は

何でもできるような気がしたし、何にでもなれるような気でいた。

 

もちろん、30歳近くにもなれば、そんなのは現実を認識できていない子供の「思い込み」だって理解してはいるのだけれど、そんな風に考えてしまう自分、理解してしまっている自分がちょっと寂しい。

 

ふと思ったこと。

 

子供って、ほんとに元気でエネルギーに溢れている。

 

特に朝っぱらの異常なテンションの高さとか、元気とか、大人にはなかなかないものだと思うんだ。

 

きっと、自分も子供の頃は朝からめっちゃ元気だったり(あまりそんな記憶はないけれど)今では考えられないような無茶なことをしていたのだろう。(そう言えば、小学五年生くらいまで年中短パンで過ごしていたなぁと思ったり)

 

大人に近づくにつれて、いい加減朝っぱらから騒ぐなんてみっともないよな(こういうことは中学生くらいから意識するようになった気がする)だとか、そういう考えが最初に生まれて、そういう日々を過ごすうちに、いつの間にか元気の出し方を忘れて、元気のない朝が当たり前になって、今はもう朝からはしゃごうとしてもあんな風にエネルギッシュになれない気がする。

 

まぁ、まだ自分の中で格好をつけたり、理性を働かせている部分もあるんだろうけれど、よしんば一日そういう日を過ごせたとしても、翌日も続けられるかはかなり怪しい。

 

そもそも子供は「朝から元気を出そう」などと考えずに、自然と元気を作り出しているわけで。「朝から元気を出そう」と意識して作り出した元気は、もうその時点で純粋なエネルギーではない気がする。

 

きっと、子供が朝から元気なのは、毎日新鮮なことだらけでワクワクしているからなんだろう。

 

子供の頃は、現実を悟った気になって、それなりのところで落ち着いて、夢も希望も持たずに疲れた顔で毎日を過ごす「つまらない大人」なんかにはなりたくないし、決して自分はそんな風にならないと思っていたはずなんだ。

 

なんだかそうやって、大人になる過程でいつの間にか忘れてしまったことや、どこかに置き忘れてきてしまったものがたくさんある気がする。

 

必要ないものならいいけれど、大切なものはなるべく失わずに進みたい。

 

もちろん、大人になる過程で手に入れたものや、拾い集めたものもたくさんあるのだけれどねぇ。

 

 

 

イブの時間ー劇場版

元々は短編連作でウェブ公開されたアニメーション作品の劇場版。

 

ストーリー

未来、たぶん日本。
ロボットが実用化されて久しく、
人間型ロボットが実用化されて間もない時代。

 

ロボットを人間と同じように扱う人間(作中ではドリ系と称されている)に対して差別的な時流。ロボットと人間を区別しない、「イブの時間」という喫茶店で繰り広げられる人間とロボットの群像劇。

 

数年前にもDVDをレンタルして視聴したのだけれど、当時はそれほど印象に残らなかった。当時の自分の感受性の貧しさ、読解力のなさを痛感させられる。設定の部分にツッコミどころがないわけではないけれど、色々と感慨深い話で大好きになった。

 

タイトルからクリスマスに関係ありそうな気がするけれど、全くそんなことはなかったりする。なんとなく、クリスマスに見たい気分だったのだけれど、もたもたしているうちに年を明けてから再視聴するに至った。

 

自分の中で突き刺さったシーンは大きく3つ。

 

ピアノを挫折してしまった主人公が、色々な思いを振り払って一心不乱にピアノを演奏するシーン。

自分は、葛藤の中でもがくキャラクターが何かをきっかけに吹っ切って、自分の思うままに行動する瞬間にもの凄くカタルシスを覚えるタイプなんだろうと気づいた。「葛藤する時」というのは、大概が頭でモノを考えている場合なんだと思う。自分が満たしたい欲求に大して、理性や現実的な観点がノーを突きつけているような状態。それらから解放されて、ただただ純粋に「ピアノを弾くのが楽しいから」という理由で小気味好く鍵盤を叩くシーン。その純粋な気持ちの演奏が周囲の人間を笑顔にしたり、感動させたり、認められたり。

 

不法投棄されたロボットが喫茶店に訪れるシーン。

「記録」と「記憶」の違いについて考えてみると、そこに人間らしさが現れているような気がして色々と面白くもある。機械がしていることはあくまで「記録」なんだろうけれど、そこに「思い」みたいなものが宿ると「記憶」に変わるんだと思う。主観の入る余地のない「記録」は正確さが担保されているものだけど、主観が入る「記憶」は大概事実との隔たりがあったり捏造されていることが多い。

不法投棄されたロボットとのやりとりはコメディチックでありながらも、切に何かを訴えかけられる。消去された記録を引っ張りだそうとした結果、ショートしてしまったロボットを喫茶店の女性店主凪が抱きしめるシーンはグッときてしまう。

抱きしめるって言う行為は、その人の悲しみや怒りや憎悪や寂しさなんかの、凍てつくような負の感情を溶かすことのできる、限りなく相手に寄り添うスキンシップなんだと思う。「あなたは一人じゃないんだよ」って、こんなにも的確に表現できる行動方法は、きっと他にない。

 

主人公の友人が、長年に渡って抱いていたロボットに対する疑念が晴れるシーン。

果たしてロボットに感情はあるのか、という問いの回答シーンとも言える。ずっと秘められていた思いを告げられるという場面は、それだけで泣けてくるのだけれど、なぜかロボット相手だとさらにグッと来てしまう。これって多分、エヴァンゲリオン綾波レイが笑ってくれるあの名場面に近いものなんだと思うんだ。

何を考えているのか全然分からない相手とコミュニケーションとれたことがとにかく嬉しくて、自分の投げたことに、自分の期待した反応が返ってくるって、こんなにも嬉しいものなんだって感じさせられたりする。

 

結局、人間は何かしらとコミュニケーションを取りたいんだよねぇ。

 

感情の根源というか、第一次の部分は「寂しさ」にある、という記事を読んだことがあるけれど、つくづくほんとにそうだよなぁと思わされる。自分のしたことに対して、何の反応も返ってこないって、きっと一番寂しいことだよ。だから人は山に登ったら、ついつい叫びたくなるんだと思うんだ。

 

アンドロイドを突き詰めて行く過程では、人間というものに対する理解が欠かせないわけで。人間に似せれば似せるほど、人間との違いが浮き彫りになってくるのがまた面白い。その一方で、限りなく人間に近づいたアンドロイドは、表面上人間との違いがないようにも見える。そうなると、人間とアンドロイドの違いは、もう内面の部分だけで、本当にそれを感じているか、抑制できない気持ちがこみ上げているのかどうかに委ねられるんじゃないかな。

 

結局のところ、<人>から<限りなく人間に近づいたアンドロイド>を差し引いた時に残る部分、<限りなく人間に近づいたアンドロイド>が模倣しきれない部分っていうのが「人間らしさ」ってことになるんだと思う。多分それは本物の感情だとか不完全さってところに行き着く。

 

それはさておき、主人公のホームメイドであるサミィ。

普段の感情を微塵も感じさせない事務的な対応と喫茶店での人間味溢れる反応とのギャップ萌えが凄過ぎる。

あんな描かれ方をされたら、もう本当にアンドロイドと人間の境目はないように思えてしまうんだ。自分の中でいくつかあるキャラの使い分け、恥じらい。

 

「ユーモア」と「恥じらい」の感覚って、一番人間味を感じさせられるような気がして、ここはそう簡単にはAIに理解できない部分だと思うんだよね。

 

とにもかくにも、ロボット(AI)を通してあらためて人間を考えさせてくれるいい作品。今はまだSFの範疇だけど、ロボットの技術はどうやらものすごい勢いで進化しているみたいなので、近い将来作中のような未来がやってくるかもしれない。