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海よりもまだ深く

昨日のブログのラストに家族を結束しているバンドの正体は”血の繋がり”なんじゃないかと書いたので、今日は”家族”をテーマに扱った映画のお話。

 

海よりもまだ深く

 

是枝監督の描く”家族”をテーマに扱った映画作品は、なぜだか僕の心の奥底に強く突き刺さる。

そして父になる」も”家族”(厳密には親子かな?)をテーマに扱った面白い作品だったけど、”突き刺ささる”という感覚でいえば、「海よりもまだ深く」と「歩いても 歩いても」の二作だったりする。

 

この二作の共通点は、阿部寛演じる息子と樹木希林演じる母親の配役になっていること。阿部寛の演技には言い知れぬ惹きつけられる魅力みたいなものがあって、個人的に好きな俳優の一人だ。

だから、阿部寛が主役を演じているという要素も大きいのだろうけれど、恐らく僕にとってより痛切に、チクチクと心に突き刺す得体の知れないトゲの正体は、樹木希林演じる母親の方だ。

 

両作で、阿部寛の演じる息子役のキャラクター設定には大きな違いがあったのに対し、樹木希林演じる母親に関して言えば、僕の目にはあまり大きな違いがなかった。

いや、「歩いても 歩いても」の母が夫に対して敬意を持っているのに対し、「海よりもまだ深く」の母が夫に対して諦観や蔑みの念を抱いているという点では大きく違うかもしれないし、それが「歩いても 歩いても」と「海よりもまだ深く」の物語の筋に大きな違いをもたらしているのかもしれないけれど……

そこはともかく、僕が思うこの作の母親の特徴は両者ともに”長年住んだ家を自分一人の力では離れられない母親像”であるということ。

アクティブやスマートさのカケラを感じさせない重苦しさ、保守的、前時代的で田舎気質の、自分が育った時代背景の固定観念を脱却できない、その性格を体現するかのようにあらゆるモノ(家具・雑貨)を家の中に抱え込んで生きている。そんなキャラクター設定。

 

この母親が本音と建前を使い分けて息子の嫁(義理の娘)に接するわけなのだけれど、その表面上を取り繕っている感じのあざとさだとか、時折飛び出す本音だとか、それがうっかりなのかわざとなのか分からない所だとかが、もうなんとも言えないくらい、無性に憎々しい。

 

でも、それでも、両作の母親が共に娘を、そして息子を愛していることもまた事実なのだろう。

 

僕はこの母親の人物像に、是枝監督の描く”大切でかけがえのない愛すべき存在であるけれどそれだけではない、血が繋がっているからこその煩わしさや憎さ伴う家族”(これは多分何かのインタビュー記事か何かに書いてあったと思う)の大部分を見ているように思う。

 

まぁ、なんというべきだろうか。

 

思うことは、あの母親の人物像は、多くの男性にとっても自身の持つ母親像にニア・イコールに見えるのだろうかという疑問、興味だろうか。

 

多分、あれは女性が社会に出ることを許されなかった時代が作り上げた、家の中を守ることを使命としていた量産型(僕にはそう見えてしまう)の母親の成れの果てなんだろうと考察してみる。

 

しかし、どうして、時代が一回り以上も違うはずの自分の心に深く突き刺さるのか……