すべてが僕のチカラになるブログ。

「人生」「物語」を中心テーマに、日々感じたこと、考えたことをなんでも書き綴ります。

少し嬉しくなり、考えさせられたコミュニケーション

昨日のアルバイトにて、ほぼ日本語を話すことのできない外国人が来店された時のこと。


小学生くらいの娘さんを連れられたファミリー。日本人のような容姿をしているので、僕は普段通り席のご案内をした。相手は僕の言ってることをよく理解できないといった表情で、無言のまま禁煙席へと歩いていく。その時は正直内心で、メンドくさそうなお客さんが来たなぁ、と思いながら僕はお冷とおしぼりを持って行った。そこで僕はようやく、相手が日本語をほとんど理解できない外国人だということに気がついた。

 

そのファミリーはメニュー表を広げて注文を決め始めたので、僕は一旦席を離れることにした。その時も僕はまだ内心でこの卓のメニューを請けに行くことに少しばかりの抵抗を持っていた。当然ながらではあるが、メニューを受ける際に言語が通じないのは非常に致命的だからだ。オーダーミスに繋がることも十分考えられる。できれば社員の人にオーダーを受けに行って欲しいところだけれど、そもそも平日の夕方のホールは二人しかいないので、確率的には50%。決して低い確率ではない。

 

案の定、彼らの座る席番の呼び鈴が鳴らされた時、一番近くにいたのは残念ながら僕だった。
僕は貧乏クジを引いたかのような思いで注文を伺いに行く。
ただ、僕もコミュニケーションの本質自体はある程度ながら理解しているつもりだ。言葉が通じない場合、重要になるのはボディーランゲージやメニュー表を用いて指差し確認し、きちんと意思の伝達を図ること。その点を心掛けて、いざ相手の領地へと足を踏み入れる。
注文を伝えてくれたのは、父親でも母親でもなく、なぜか娘さんだった。しかし、彼女も彼女で言葉が通じない場合のコミュニケーション手段を心得ているらしく、メニュー表を指差しながら人差し指を立てて「This One」と丁寧に伝えてくれる。僕と娘さんが意思を疎通させているのに合わせて、父親が「オーケー、オーケー」と合いの手を入れてくれる。気がつくと、僕も勢いで「オーケー、This One」とフランクなノリで返していた。もちろん相手はその態度に怒ったりすることなく、サムズアップでフランクに返してくれる。ジェスチャーゲームで相手と意思疎通を図れた瞬間の、なんとも言えない快感に似ていたと思う。コミュニケーションの空気が、淀むことなくその場に流れてくれた瞬間だった。


言語はコミュニケーションを図るための重要なツールであることは間違いない。けれど、どこまでいってもツールに過ぎないということを改めて認識させられた。


僕はメンドくさそうだなと思っていたことを大いに反省し、数分前の自分を戒める。
つくづく感じさせられる至らなさ。共通の言語を持っている人間同士でも、意思の疎通ができなかったり、言語によるコミュニケーションができるからこその良い加減さ、相手と向き合わない態度がついつい出てしまう。近年は、特にその傾向が強くなっていると思う。


僕自身もついそういう姿勢を取ってしまうことがあるので、改めていかなければいけない。
コミュニケーションにおいて何よりも重要な核になるのは、相手の立場に立って自分の意思を伝えようとする『思いやりの心』。

コミュニケーションの本質とは、心を通わすという部分にあるのかもしれない。