すべてが僕のチカラになるブログ。

「人生」「物語」を中心テーマに、日々感じたこと、考えたことをなんでも書き綴ります。

ツレがうつになりまして

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あらすじ

主人公の晴子(宮崎あおい)は少女コミックにのらりくらりと連載を続ける漫画家。のらりくらりなので、収入はさほどないし連載もしばしば打ち切られる。そんな彼女を支えてくれているのは最愛の夫である通称ツレ(堺雅人)。会社ではバリバリ仕事をこなし、自宅では家事全般を担ってくれるスーパー夫のツレにより、晴子のノンビリとした漫画家生活は成り立っていた。そんなある朝、ツレがキッチンナイフを片手に「死にたい」と言い出した。心療科で診察を受けたツレは鬱病と診断され、夫婦の壮絶な闘病生活が始まる。コミックエッセイ原作の映画。

 

鬱病にかかる原因の考察


鬱病は文明社会が抱える病の一つ。発展途上国やあるいは田園が広がるのんびりとした田舎の環境下では発症しづらい。

近代化が進むと同時に、資本主義の流れで競争が激化することにより他者との比較機会が著しく増加することが要因の一つと考えられる。また、自然と触れ合う機会の減少や対人関係を主とする諸々のストレス過多、一日一日を振り返る余裕のない切迫した日々の積み重ねなどの様々な理由が重なって鬱状態に陥る。
真面目、神経質、几帳面、融通が利かなかったり責任感の強い人ほどかかりやすい。
作中でもツレの神経質で几帳面で、真面目すぎる一面が嫌というほど描かれている。(例えば、毎朝お弁当を作って持っていくようにしている、曜日ごとに付けるネクタイを決めている、苗字の間違いに異様なまでに固執する、文字幅を定規で測りながら手紙を書く、平日に昼寝することに対して異常なまでに罪悪感を抱くなど)

 

心が見えない厄介さ

 

原作が出版されたのが2006年頃ということで、少なくとも作者達が闘病していたのはそれ以前ということになる。今ほど鬱病に対する認知が広がっていない時代。映画にもあったように、多くの誤解や偏見に晒されたのだと思う。鬱は甘え、という認識が未だに蔓延っているように、心の病は目に見えないからこそ厄介だったりする。特に近年は新型鬱の影響で旧来型の鬱病も一括りに混同されたりするのもややこしさに拍車をかけている。どこからが病気で、どこまでが気分が落ち込んでいるだけの状態なのか、素人目には判断がつきづらい状況。心は見えないから厄介なのだけれど、しかしながら、見えないおかげで人間社会が成り立っているという側面もある。

 

印象に残ったシーン

 

ツレが会社を退職したことにより、家計を支えなければいけなくなった晴子は編集部からイラストの仕事を回してもらう。納期が間近に迫り、寝不足でイライラしている最中、ツレに苗字の間違いを訂正をするようしつこく念押しされた晴子はついツレにきつく当たってしまう。

 

 

身近な人との喧嘩はいつだって、後から思い返せば取るにも足らないような些細なことから始まる。そして、人間、余裕がなくなると自分のことで手一杯になり、ついつい人を気遣うことを忘れてしまう。逃げ恥のヒロインみくりも、同じような出来事で自己嫌悪に陥っていた。

 

晴子の放った一言はツレの心を容赦なく刺殺した。ツレは風呂場に引きこもり、水のシャワーを浴びながら、ドアノブにタオルを括り付けて自殺を図る。

間一髪、異変を察知して風呂場に駆けつけた晴子はツレを救出し、冷水のシャワーが降り注ぐ中、ツレを抱きしめて謝罪する。

 

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果たして、僕が晴子の立場だったとしたら、同じことができただろうか。いつどのタイミングで爆発してしまうか分からない爆弾を抱えながら生きるような生活。晴子なりに散々ツレにお世話になってきたことや描写させていない年月の積み重ねがあるのだろうけれど。生半なことではないからこそ、このシーンには夫婦の愛や絆というものが凝縮されていたように思う。この物語は鬱病の認知を訴えかけると共に、夫婦愛を描いた物語でもある。

 

最後に、自分なりの鬱病対策

 

作中では、鬱病は誰もがかかる可能性のある心の風邪と表現されている。僕自身、鬱病にかかっていたわけではないのだろうけれど、非常に落ち込みやすく、憂鬱を抱えやすい性格なので決して人ごとではない。

映画の最後で、鬱から回復したツレが鬱病との付き合い方について講義するシーンがある。僕も自分なりに考えてみた。

 

・先入観や固定観念を捨てる。(こうしなきゃいけないとか、こんなことしていると世の中に申し訳がないなどという非論理的で実体のないものに惑わされて自分を追い込まない!)

 

・他人と比較せず、自分の短所も自分の一部なんだと受け入れ、自分らしく生きることを肯定する。(あなたを縛っているものが唯一あるとすれば、それはあなた自身だ!)

 

・人間はそもそもいい加減なものだという認識を持ち、そのいい加減な部分を笑ったり、愛したり、許せるだけのユーモアを持つ。(笑いは余裕から生まれ、余裕が笑いを生み出す。笑えるとは素晴らしいことだ!)

 

以上、三点。

 

人生には地図もなければ絶対的な正解も存在しない。

 

だから、時に迷ったり不安に押し潰されそうにもなる。立ち止まったり、目の前の問題から逃げてしまうこともある。

 

けれど、それでも、またゆっくりでいいから、歩きはじめれば、違った景色や新しい物が見えてくることだってある。

 

そうやって、迷いながら、時に立ち止まりながらも、一歩ずつ前進を繰り返し、自分の人生を振り返って、そう悪くもない人生だったなと思えれば、それは幸せな人生を歩んだ、ということなんじゃないだろうか。

 

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七夕

もうすぐ七夕の季節ということで、トレーニングジムのある建物のエントランスホールに短冊が飾られていた。

 

以前までの僕なら、素通りするところだけれど、どんな願いが飾られているのか気になり、ふと足を止めてみることにした。

 

人々の欲望が渦巻く短冊。などと表現すると、ものすごく業が深くなるけれど、実際に飾られている短冊のほとんどが子供の吊るしたもので微笑ましく見ていられる。

 

そして、これが結構面白い。人の性格を表す一つの指針は願望であると言える。数多く存在する人間の欲求。そのバランスが人物の特色を担っていると言っても過言ではない。

 

しかし、とりわけ大人になると公に欲求を吐露するのは憚られる。特に大人になるほど肥大化していく金欲、肉欲、出世欲などは、多くの場合、忌避される対象なので、なかなか本音は見えてこないものだ。

なので、短冊に吊るしてある願い事の大半が(というかほぼ全てかもしれない)子供の書いたものだったりする。

同じ金銭欲でも、平がな混じりに拙い字で『宝くじにあたって10おく円がもらいたいです』と書かれているのが微笑ましく感じ、子供は素直で良いなぁと感じさせられるのはやっぱり子供ならではのキャラクター性が作り出すものなのだろう。

 

他にも『世界一のサッカー選手になりたい』や『かみのけ屋さん(恐らく美容師か理容師のことだと思われる)になりたい』、『〇〇くんと付き合えますように』などといったちょっと色気づいたものから、家族の健康と幸せを願うものまで、枚挙に富んでいて飽きることがない。

 

中には子供らしくないような願い事もあったりするのだけれど、とりわけその中でもシュール過ぎて思わず写真に収めてしまった一枚をアップしておく。

 

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短冊の主が彼なのか、あるいは彼女なのか見当もつかないが、こんな切実過ぎる願い事を子供が短冊に書かなければならない世の中が心配になると同時に、短冊の主とさんまの間にどのような因果関係があるのか非常に気になる一文だ。

 

とりあえず、僕は、この短冊の主がさんまを食べ、生きぬいてくれていることを願うことにする。

 

小さな親切、大きなお世話現象

良かれと思ってやったことが相手の怒りや反感を買ってしまうという経験、現代人なら多くの人があるんじゃないだろうか。

 

恐らく多くの人が被害者になり、時に加害者になっている。

 

これは普段から感じていることなんだけど、ここ最近の外食の際、僕の苦手なタイプのドレッシングが、さも当たり前のようにサラダにかけられている場面に度々遭遇し、ああこんな所にもあったなぁ「小さな親切、大きなお世話」と、ふと思ってしまった。(ちなみに自分はフレンチやごまなどのドレッシングが苦手。有無を問わずかけられている場合、大概どちらかのタイプであることが多いのは気のせいだろうか……)

 

もちろん、ドレッシングがかかっている  かの確認をしなかった僕にも落ち度があるので、文句など言わずに食べたることにした。店側としてはドレッシングをかけずにそのまま出す方が楽なわけだし経費も浮く。だから、これは店側の親切心であることは、おそらく間違いない。

 

ただ、これは、相手の立場になりきれていない店側の配慮のなさでもあるはずだ。中には僕のように和風やイタリアン系のものを好む人もいれば、ノンオイルじゃないとかけて欲しくないという人、はたまたドレッシングだろうとマヨネーズだろうとソースだろうと何だろうとかけてたまるかという人もいる。

 

結局のところ、この良かれと思ってやったことが相手の怒りや反感を買ってしまう「小さな親切、大きなお世話」現象は、自分を基準に行動し、相手の立場に立つという視点を疎かにしていることから起こる。

 

とりわけ現代は、昔に比べて価値観の多様化が進み、皆の考えていることに大きな隔たりができている。悲しいけれど、自分にとって有り難いことが、他人にとってもそうであるとは限らないのだ。


もちろん昔だって、こんな齟齬の一つや二つあったのだろう。人間はそれぞれの独立した思考と意思の元に動いているのだから、当たり前だ。

けれど、的外れだろうと相手の善意を汲み取ってあげられる余裕が昔の人達にはあったのだと思う。様々なことに対する許容が狭くなりつつあるストレス社会では、些細なことが人間関係のトラブルの引き金になり兼ねない。

 

なにより、この問題の根深いところは、親切をする側の労力が親切を受ける側の不幸に繋がっているというところにあると思う。客観的に見れば、お互いにLose Lose の状態だ。とりわけ、元を辿れば善意から発進されているため、簡単に無下にするわけにもいかない。無下にすると罪悪感に近い不快感(恐らく些細なことを許容できなかった自分に対する失望や諸々)を抱き、かといって甘んじて受け入れればそれもまた何かしらの不快を被ることになる。

 

なんだか、ここに、人間関係のジレンマが凝縮されているような気がした。

そして自分自身も無自覚のうちに、誰かに大きなお世話を押し付けてしまっているんじゃないかという泥沼思考。悪循環。疑心暗鬼。

 

考え過ぎは良くないので、深くは悩まないようにしよう。悩むことも時には大事だけれど、それ以上に行動することが大事だ。

 

この問題を解決するためにできることは、相手を変えることではなく、自分の考えや行動を見直してみること。親切をする時は相手の立場に立って行動し、親切を受ける時は相手の立場に立って善意を汲み取る。

 

機転と余裕の両方を持ち合わせた、ハイブリッド人間になりたいものである。

 

 

 

 

 

 

君の膵臓、凄くイイ

今年も早いもので、もう半分が過ぎ去った。

 

個人的には二十代最後の年。時間の体感スピードは年々増していく。いくつまで生きられるか分からないけど、そろそろ人生の折り返し点に経っているだと自覚した方がいいのかもしれない。

 

そんなことをぽつりぽつりと考える、今日この頃。

 

せっかくなので、2017年上半期に読んだ小説で一番心に残ったものを取り上げ、最近感じたことと絡めて書き記しておこうと思う。

 

 

パンチの効いた強烈なタイトルに加え、瑞々しい繊細な若者心理の描写が良い。タイトル名も、ただただ奇をてらって付けられたわけではなく、物語を読むことで腑に落ちるつくりになっている。

 

対人関係に稀薄な主人公が、ある出来事をきっかけにクラスメイトの女子と関わり合うことになり、人と関わることでしか得られない喜びや、あるいは悲しみなどの尊い感情に気づく物語。(個人的には主人公とヒロインの立ち位置や構造がFF8を彷彿とさせられてどストライクだったのだと思う)

 

予想外の展開やベタながらもついつい涙してしまう演出、心に突き刺さる文章表現、なによりもヒロインが生き生きと描かれているのが良い。

 

話は少し変わるけれど、最近PodCastでアニメプロデューサー鈴木敏夫さんの「ジブリ汗まみれ」を聞いている。深い話聞けて、非常に面白い。随分と前に放送されたものの中に、一時期ブームとなった難病モノのフィクションに関して議論されている回があった。

 

大概の難病モノは闘病の果てに、かけがえのない、大切な人が死んでいく話だ。なぜその手の題材がフィクションの世界に溢れかえったのかというと、現代人は死を身近に感じていないからだという。


日常をただ生きているだけでは感じることのできない、けれどいつか必ず訪れる「死」という現実。生きていることが当たり前になった世の中は、その現実をフィクションに求めた。


そして、まさしく自分は死を身近に感じていない世代のど真ん中といえる。(僕が死というものに対して初めて衝撃を受けたのは、恐らくドラクエ5のパパスかFF5ガラフだ)

 

生きられることが当たり前の人生。

 

人は当たり前だと思っていることには感謝も実感も持てない。生きていることを感じるためには、砂漠を延々彷徨った末、ようやくあり付いたコップ一杯の水を飲み干し、「生き返った〜」と声高に叫ぶ。
そんな経験が必要なのだと思う。

 

現代の日本ではそういう状況に早々遭遇するものではない。それはもの凄くありがたいことなんだけど、それと同時に人の心の中から大切なものを消し去ってしまう。簡単に命を落とさなくて済む世の中だけれど、「死」が身近にないからこそ生きていることを実感できない社会。


高度な文明社会を築く人間のジレンマが、難病モノブームに火をつけた側面なのかもしれない。

 

話を元に戻すと、「君の膵臓を食べたい」もこの難病モノカテゴリーに属するのだろう。(ブームとか人の生き死にを安直に感動へと繋げている類の作品に違和感を覚える自分としては一緒にしたくないけれど)
僕も結局は「死」を身近に感じとることができていないから、この物語に強く心を打たれてしまったのだと思う。


けれど、フィクションというものの持つ役割はまさに現実に味わうことのできない体験や感情を想起させるところにあるのだし、作り出された感情とはいえ、僕がその瞬間感じた気持ちは嘘ではなかったはずだ。(僕に異性の大切な人ーーつまりは恋人ーーがいないから、あくまで想像の範疇を超えられないのが悲しい現実)

 

少しばかり難しい方向に進み、話が右往左往して纏まりがなくなってしまったが、「君の膵臓を食べたい」
絶賛、おすすめの本です。

 

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少し嬉しくなり、考えさせられたコミュニケーション

昨日のアルバイトにて、ほぼ日本語を話すことのできない外国人が来店された時のこと。


小学生くらいの娘さんを連れられたファミリー。日本人のような容姿をしているので、僕は普段通り席のご案内をした。相手は僕の言ってることをよく理解できないといった表情で、無言のまま禁煙席へと歩いていく。その時は正直内心で、メンドくさそうなお客さんが来たなぁ、と思いながら僕はお冷とおしぼりを持って行った。そこで僕はようやく、相手が日本語をほとんど理解できない外国人だということに気がついた。

 

そのファミリーはメニュー表を広げて注文を決め始めたので、僕は一旦席を離れることにした。その時も僕はまだ内心でこの卓のメニューを請けに行くことに少しばかりの抵抗を持っていた。当然ながらではあるが、メニューを受ける際に言語が通じないのは非常に致命的だからだ。オーダーミスに繋がることも十分考えられる。できれば社員の人にオーダーを受けに行って欲しいところだけれど、そもそも平日の夕方のホールは二人しかいないので、確率的には50%。決して低い確率ではない。

 

案の定、彼らの座る席番の呼び鈴が鳴らされた時、一番近くにいたのは残念ながら僕だった。
僕は貧乏クジを引いたかのような思いで注文を伺いに行く。
ただ、僕もコミュニケーションの本質自体はある程度ながら理解しているつもりだ。言葉が通じない場合、重要になるのはボディーランゲージやメニュー表を用いて指差し確認し、きちんと意思の伝達を図ること。その点を心掛けて、いざ相手の領地へと足を踏み入れる。
注文を伝えてくれたのは、父親でも母親でもなく、なぜか娘さんだった。しかし、彼女も彼女で言葉が通じない場合のコミュニケーション手段を心得ているらしく、メニュー表を指差しながら人差し指を立てて「This One」と丁寧に伝えてくれる。僕と娘さんが意思を疎通させているのに合わせて、父親が「オーケー、オーケー」と合いの手を入れてくれる。気がつくと、僕も勢いで「オーケー、This One」とフランクなノリで返していた。もちろん相手はその態度に怒ったりすることなく、サムズアップでフランクに返してくれる。ジェスチャーゲームで相手と意思疎通を図れた瞬間の、なんとも言えない快感に似ていたと思う。コミュニケーションの空気が、淀むことなくその場に流れてくれた瞬間だった。


言語はコミュニケーションを図るための重要なツールであることは間違いない。けれど、どこまでいってもツールに過ぎないということを改めて認識させられた。


僕はメンドくさそうだなと思っていたことを大いに反省し、数分前の自分を戒める。
つくづく感じさせられる至らなさ。共通の言語を持っている人間同士でも、意思の疎通ができなかったり、言語によるコミュニケーションができるからこその良い加減さ、相手と向き合わない態度がついつい出てしまう。近年は、特にその傾向が強くなっていると思う。


僕自身もついそういう姿勢を取ってしまうことがあるので、改めていかなければいけない。
コミュニケーションにおいて何よりも重要な核になるのは、相手の立場に立って自分の意思を伝えようとする『思いやりの心』。

コミュニケーションの本質とは、心を通わすという部分にあるのかもしれない。

最高の人生のつくり方


妻に先立たれ、子供との関係も上手くいかず、偏屈で自己中心的な老人が孫娘を預かることをきっかけに、人生の幸せを見つけ出す映画。
いくつになっても恋はできるし、人間は思い一つで変わることができるということを感じさせてくれる。

 

20代前半の頃、この手のタイトルの作品に速攻で食いついていた自分は、やっぱり人生に行き詰まり、迷走していたんだろう。
そんなことをしみじみ思いながらも、なんだかんだ未だに、ついつい食いついてしまう。だけどもまぁ、話の筋も大方予測できるようになり、最終的な着地点も理解できるようになったわけで、あの頃よりは幸せというものについて幾分理解進んだのだと思ったりもする。


幸せの形は人それぞれだけれど、万人にとっての幸せとは、他者と繋がっていること。

他者と分かりあい、笑い合い、気持ちを共有できることなんだと思う。


もちろん広い世の中には、ずっと一人でいたい、誰とも関わり合わずに生きてる方が楽だ、と感じる人もいるのだろうけれど、少なくとも僕はそれを幸せな状態だとは思わない。

 

この物語の主人公のように、人間は年を重ね、成功を積み上げるほどにプライドが肥大化してしまう生き物だ。自分の感情に素直になれず、つい思っていることとは違うことが口をついて出てしまう。
あるいは、傷つきやすく他人を信じられなくなることもある。この世に自分を理解してくれる人など一人もいないのだと、殻に閉じこもってしまうこともある。僕自身が痛いほどに経験したことだ。

様々な考えの人がいて、価値観の多様化が進む中、分かり合える人とは早々出会えないのかもしれない。

 

けれども、そういう諸々を乗り越えて、心から信頼できる人、心から愛することのできる人は、かけがえのない存在だ。

人間関係には様々なジレンマが付き物だと思う。作中、印象に残った台詞にも体現される通り、「愛には犠牲が付き物」。

そして、「出会いには必ず別れがある」。

人生も人間関係も、美味しいとこどりなんてできなくて、様々な厄介ごとを抱えていて、一歩足を踏み外せば崩れかねない不安定なバランスの上に成り立っているのかもしれない。
それでも、苦しいジレンマを抱えたその先に、確かな幸せを感じるからこそ、人は人と関わり続けたいと願う。

「感情」から書く脚本術

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400ページ近くに及ぶ大ボリュームのハリウッド式脚本術ハウツー本。

「感情」は、人間から切っても切り離すことのできない非論理的で厄介な、しかし愛するべき得体の知れない存在。本書では、その「感情」を観客の心に生み出す様々なテクニックが取り上げられている。

読み終えるのに二ヶ月近くを要してしまったが、個人的には目から鱗の情報ばかりで、非常に発見に満ちていた。

エンターテイメントととは、とどのつまり観客の感情にどれだけ訴求できるかが勝負だ。

「喜び」「笑い」「愛しい」などをはじめとするポジティブな感情はもちろん、時には「悲しみ」「怒り」「憎しみ」「切なさ」などネガティブな感情をも生み出すことが必要になる。

特にストーリー系のエンターテイメントは、難解で複雑で、時に残酷な、それでも素晴らしい人生を表現するために、ネガティブな感情とポジティブな感情の両面を描き出すことが、人間ドラマに繋がる。

人生良いことばかりじゃない。辛いことや悲しいことや残酷なことが事実、たくさんありふれている。けれど、それでも、人生捨てたもんじゃない。ほんの少しの幸せを噛み締めて、前を向き、笑って今日も歩き出そう。

そんな風に思わせてくれる作品がすごく好きで、いつか自分もそんな作品を描きたい。