君の膵臓、凄くイイ
今年も早いもので、もう半分が過ぎ去った。
個人的には二十代最後の年。時間の体感スピードは年々増していく。いくつまで生きられるか分からないけど、そろそろ人生の折り返し点に経っているだと自覚した方がいいのかもしれない。
そんなことをぽつりぽつりと考える、今日この頃。
せっかくなので、2017年上半期に読んだ小説で一番心に残ったものを取り上げ、最近感じたことと絡めて書き記しておこうと思う。
パンチの効いた強烈なタイトルに加え、瑞々しい繊細な若者心理の描写が良い。タイトル名も、ただただ奇をてらって付けられたわけではなく、物語を読むことで腑に落ちるつくりになっている。
対人関係に稀薄な主人公が、ある出来事をきっかけにクラスメイトの女子と関わり合うことになり、人と関わることでしか得られない喜びや、あるいは悲しみなどの尊い感情に気づく物語。(個人的には主人公とヒロインの立ち位置や構造がFF8を彷彿とさせられてどストライクだったのだと思う)
予想外の展開やベタながらもついつい涙してしまう演出、心に突き刺さる文章表現、なによりもヒロインが生き生きと描かれているのが良い。
話は少し変わるけれど、最近PodCastでアニメプロデューサー鈴木敏夫さんの「ジブリ汗まみれ」を聞いている。深い話聞けて、非常に面白い。随分と前に放送されたものの中に、一時期ブームとなった難病モノのフィクションに関して議論されている回があった。
大概の難病モノは闘病の果てに、かけがえのない、大切な人が死んでいく話だ。なぜその手の題材がフィクションの世界に溢れかえったのかというと、現代人は死を身近に感じていないからだという。
日常をただ生きているだけでは感じることのできない、けれどいつか必ず訪れる「死」という現実。生きていることが当たり前になった世の中は、その現実をフィクションに求めた。
そして、まさしく自分は死を身近に感じていない世代のど真ん中といえる。(僕が死というものに対して初めて衝撃を受けたのは、恐らくドラクエ5のパパスかFF5のガラフだ)
生きられることが当たり前の人生。
人は当たり前だと思っていることには感謝も実感も持てない。生きていることを感じるためには、砂漠を延々彷徨った末、ようやくあり付いたコップ一杯の水を飲み干し、「生き返った〜」と声高に叫ぶ。
そんな経験が必要なのだと思う。
現代の日本ではそういう状況に早々遭遇するものではない。それはもの凄くありがたいことなんだけど、それと同時に人の心の中から大切なものを消し去ってしまう。簡単に命を落とさなくて済む世の中だけれど、「死」が身近にないからこそ生きていることを実感できない社会。
高度な文明社会を築く人間のジレンマが、難病モノブームに火をつけた側面なのかもしれない。
話を元に戻すと、「君の膵臓を食べたい」もこの難病モノカテゴリーに属するのだろう。(ブームとか人の生き死にを安直に感動へと繋げている類の作品に違和感を覚える自分としては一緒にしたくないけれど)
僕も結局は「死」を身近に感じとることができていないから、この物語に強く心を打たれてしまったのだと思う。
けれど、フィクションというものの持つ役割はまさに現実に味わうことのできない体験や感情を想起させるところにあるのだし、作り出された感情とはいえ、僕がその瞬間感じた気持ちは嘘ではなかったはずだ。(僕に異性の大切な人ーーつまりは恋人ーーがいないから、あくまで想像の範疇を超えられないのが悲しい現実)
少しばかり難しい方向に進み、話が右往左往して纏まりがなくなってしまったが、「君の膵臓を食べたい」
絶賛、おすすめの本です。
少し嬉しくなり、考えさせられたコミュニケーション
昨日のアルバイトにて、ほぼ日本語を話すことのできない外国人が来店された時のこと。
小学生くらいの娘さんを連れられたファミリー。日本人のような容姿をしているので、僕は普段通り席のご案内をした。相手は僕の言ってることをよく理解できないといった表情で、無言のまま禁煙席へと歩いていく。その時は正直内心で、メンドくさそうなお客さんが来たなぁ、と思いながら僕はお冷とおしぼりを持って行った。そこで僕はようやく、相手が日本語をほとんど理解できない外国人だということに気がついた。
そのファミリーはメニュー表を広げて注文を決め始めたので、僕は一旦席を離れることにした。その時も僕はまだ内心でこの卓のメニューを請けに行くことに少しばかりの抵抗を持っていた。当然ながらではあるが、メニューを受ける際に言語が通じないのは非常に致命的だからだ。オーダーミスに繋がることも十分考えられる。できれば社員の人にオーダーを受けに行って欲しいところだけれど、そもそも平日の夕方のホールは二人しかいないので、確率的には50%。決して低い確率ではない。
案の定、彼らの座る席番の呼び鈴が鳴らされた時、一番近くにいたのは残念ながら僕だった。
僕は貧乏クジを引いたかのような思いで注文を伺いに行く。
ただ、僕もコミュニケーションの本質自体はある程度ながら理解しているつもりだ。言葉が通じない場合、重要になるのはボディーランゲージやメニュー表を用いて指差し確認し、きちんと意思の伝達を図ること。その点を心掛けて、いざ相手の領地へと足を踏み入れる。
注文を伝えてくれたのは、父親でも母親でもなく、なぜか娘さんだった。しかし、彼女も彼女で言葉が通じない場合のコミュニケーション手段を心得ているらしく、メニュー表を指差しながら人差し指を立てて「This One」と丁寧に伝えてくれる。僕と娘さんが意思を疎通させているのに合わせて、父親が「オーケー、オーケー」と合いの手を入れてくれる。気がつくと、僕も勢いで「オーケー、This One」とフランクなノリで返していた。もちろん相手はその態度に怒ったりすることなく、サムズアップでフランクに返してくれる。ジェスチャーゲームで相手と意思疎通を図れた瞬間の、なんとも言えない快感に似ていたと思う。コミュニケーションの空気が、淀むことなくその場に流れてくれた瞬間だった。
言語はコミュニケーションを図るための重要なツールであることは間違いない。けれど、どこまでいってもツールに過ぎないということを改めて認識させられた。
僕はメンドくさそうだなと思っていたことを大いに反省し、数分前の自分を戒める。
つくづく感じさせられる至らなさ。共通の言語を持っている人間同士でも、意思の疎通ができなかったり、言語によるコミュニケーションができるからこその良い加減さ、相手と向き合わない態度がついつい出てしまう。近年は、特にその傾向が強くなっていると思う。
僕自身もついそういう姿勢を取ってしまうことがあるので、改めていかなければいけない。
コミュニケーションにおいて何よりも重要な核になるのは、相手の立場に立って自分の意思を伝えようとする『思いやりの心』。
コミュニケーションの本質とは、心を通わすという部分にあるのかもしれない。
最高の人生のつくり方
妻に先立たれ、子供との関係も上手くいかず、偏屈で自己中心的な老人が孫娘を預かることをきっかけに、人生の幸せを見つけ出す映画。
いくつになっても恋はできるし、人間は思い一つで変わることができるということを感じさせてくれる。
20代前半の頃、この手のタイトルの作品に速攻で食いついていた自分は、やっぱり人生に行き詰まり、迷走していたんだろう。
そんなことをしみじみ思いながらも、なんだかんだ未だに、ついつい食いついてしまう。だけどもまぁ、話の筋も大方予測できるようになり、最終的な着地点も理解できるようになったわけで、あの頃よりは幸せというものについて幾分理解進んだのだと思ったりもする。
幸せの形は人それぞれだけれど、万人にとっての幸せとは、他者と繋がっていること。
他者と分かりあい、笑い合い、気持ちを共有できることなんだと思う。
もちろん広い世の中には、ずっと一人でいたい、誰とも関わり合わずに生きてる方が楽だ、と感じる人もいるのだろうけれど、少なくとも僕はそれを幸せな状態だとは思わない。
この物語の主人公のように、人間は年を重ね、成功を積み上げるほどにプライドが肥大化してしまう生き物だ。自分の感情に素直になれず、つい思っていることとは違うことが口をついて出てしまう。
あるいは、傷つきやすく他人を信じられなくなることもある。この世に自分を理解してくれる人など一人もいないのだと、殻に閉じこもってしまうこともある。僕自身が痛いほどに経験したことだ。
様々な考えの人がいて、価値観の多様化が進む中、分かり合える人とは早々出会えないのかもしれない。
けれども、そういう諸々を乗り越えて、心から信頼できる人、心から愛することのできる人は、かけがえのない存在だ。
人間関係には様々なジレンマが付き物だと思う。作中、印象に残った台詞にも体現される通り、「愛には犠牲が付き物」。
そして、「出会いには必ず別れがある」。
人生も人間関係も、美味しいとこどりなんてできなくて、様々な厄介ごとを抱えていて、一歩足を踏み外せば崩れかねない不安定なバランスの上に成り立っているのかもしれない。
それでも、苦しいジレンマを抱えたその先に、確かな幸せを感じるからこそ、人は人と関わり続けたいと願う。
「感情」から書く脚本術
400ページ近くに及ぶ大ボリュームのハリウッド式脚本術ハウツー本。
「感情」は、人間から切っても切り離すことのできない非論理的で厄介な、しかし愛するべき得体の知れない存在。本書では、その「感情」を観客の心に生み出す様々なテクニックが取り上げられている。
読み終えるのに二ヶ月近くを要してしまったが、個人的には目から鱗の情報ばかりで、非常に発見に満ちていた。
エンターテイメントととは、とどのつまり観客の感情にどれだけ訴求できるかが勝負だ。
「喜び」「笑い」「愛しい」などをはじめとするポジティブな感情はもちろん、時には「悲しみ」「怒り」「憎しみ」「切なさ」などネガティブな感情をも生み出すことが必要になる。
特にストーリー系のエンターテイメントは、難解で複雑で、時に残酷な、それでも素晴らしい人生を表現するために、ネガティブな感情とポジティブな感情の両面を描き出すことが、人間ドラマに繋がる。
人生良いことばかりじゃない。辛いことや悲しいことや残酷なことが事実、たくさんありふれている。けれど、それでも、人生捨てたもんじゃない。ほんの少しの幸せを噛み締めて、前を向き、笑って今日も歩き出そう。
そんな風に思わせてくれる作品がすごく好きで、いつか自分もそんな作品を描きたい。
ほぼ日手帳、使ってみた。
一週間前、あなたは何をしていましたか?
そう問われた時に、スッと答えを返す自信はない。だけど、一週間くらい前なら、時間をかければどうにか思い出せそうだ。詳細には無理だけど、大まかに何をしていたかくらいは思い出せる。
では、一ヶ月前ならどうだろうか。さらに遡り、一年前は……。
きっと、ほとんどの人が何をしていたか思い出せないはずだ。
今年の5月頃、「日記の魔力」という本を読み、自身もなるべく日々の出来事や感じたことを書き記すようにしていた。iPadでLifeBearというアプリを使って書いていたのだけれど、書く内容が思い浮かばなかったり、付け忘れたりする日が多く、ここ最近はすっかり付けない日が続き、半月分くらい書けずにいた。
デジタルは効率的で管理もしやすいのだけれど、ワクワク感や楽しさは薄いように感じる。おまけに見返す機会がなく、人生を振り返るという日記の一番の目的に迎合していない。
そんなわけで、アナログの日記帳に手を出してみることにした。以前から少し気になっていた、糸井重里さんの会社が作っているほぼ日手帳。僕の大好きなマザー2の手帳カバーがラインナップされていたので、ワクワク感を出すためにも購入。
中身はシンプルなデザインで、サラサラと滑るような書きごごちも良く、辞書のような手触りでページも非常にめくりやすいように作られている。ページの下段スペースには糸井さんチョイスと思われる、感慨深い内容の文章が引用・抜粋されているので、これを読むだけでも価値があるし、これを読むためにページを開いて日記を付けることに繋げられるんじゃないだろうか。
なにより、アナログ手帳はページを開いてすぐに書けるのが良い。楽しく取り組むのと同時に、取り掛かるまでのステップをいかに簡易にできるかは習慣をつくるための重要なコツ。
そんなわけで、寝る前にこの手帳を机の上に置いておき、翌朝一番に付ける習慣にしていこうと思う。
当たり前のように朝を迎え、当たり前のように一日が終わり、翌日の朝が当たり前のようにやってくる。
特別な出来事でもない限り、一日の出来事をちゃんと記憶に留めておくことなんてそうそうできるはずがない。
だけど、僕たちは確かに一日一日を過ごし、そのなんでもない日々の積み重ねが、今の僕たちに繋がっている。
ブログと日記、共にきちんと続くことを未来の僕に向けて祈る。