すべてが僕のチカラになるブログ。

「人生」「物語」を中心テーマに、日々感じたこと、考えたことをなんでも書き綴ります。

小さな親切、大きなお世話現象

良かれと思ってやったことが相手の怒りや反感を買ってしまうという経験、現代人なら多くの人があるんじゃないだろうか。

 

恐らく多くの人が被害者になり、時に加害者になっている。

 

これは普段から感じていることなんだけど、ここ最近の外食の際、僕の苦手なタイプのドレッシングが、さも当たり前のようにサラダにかけられている場面に度々遭遇し、ああこんな所にもあったなぁ「小さな親切、大きなお世話」と、ふと思ってしまった。(ちなみに自分はフレンチやごまなどのドレッシングが苦手。有無を問わずかけられている場合、大概どちらかのタイプであることが多いのは気のせいだろうか……)

 

もちろん、ドレッシングがかかっている  かの確認をしなかった僕にも落ち度があるので、文句など言わずに食べたることにした。店側としてはドレッシングをかけずにそのまま出す方が楽なわけだし経費も浮く。だから、これは店側の親切心であることは、おそらく間違いない。

 

ただ、これは、相手の立場になりきれていない店側の配慮のなさでもあるはずだ。中には僕のように和風やイタリアン系のものを好む人もいれば、ノンオイルじゃないとかけて欲しくないという人、はたまたドレッシングだろうとマヨネーズだろうとソースだろうと何だろうとかけてたまるかという人もいる。

 

結局のところ、この良かれと思ってやったことが相手の怒りや反感を買ってしまう「小さな親切、大きなお世話」現象は、自分を基準に行動し、相手の立場に立つという視点を疎かにしていることから起こる。

 

とりわけ現代は、昔に比べて価値観の多様化が進み、皆の考えていることに大きな隔たりができている。悲しいけれど、自分にとって有り難いことが、他人にとってもそうであるとは限らないのだ。


もちろん昔だって、こんな齟齬の一つや二つあったのだろう。人間はそれぞれの独立した思考と意思の元に動いているのだから、当たり前だ。

けれど、的外れだろうと相手の善意を汲み取ってあげられる余裕が昔の人達にはあったのだと思う。様々なことに対する許容が狭くなりつつあるストレス社会では、些細なことが人間関係のトラブルの引き金になり兼ねない。

 

なにより、この問題の根深いところは、親切をする側の労力が親切を受ける側の不幸に繋がっているというところにあると思う。客観的に見れば、お互いにLose Lose の状態だ。とりわけ、元を辿れば善意から発進されているため、簡単に無下にするわけにもいかない。無下にすると罪悪感に近い不快感(恐らく些細なことを許容できなかった自分に対する失望や諸々)を抱き、かといって甘んじて受け入れればそれもまた何かしらの不快を被ることになる。

 

なんだか、ここに、人間関係のジレンマが凝縮されているような気がした。

そして自分自身も無自覚のうちに、誰かに大きなお世話を押し付けてしまっているんじゃないかという泥沼思考。悪循環。疑心暗鬼。

 

考え過ぎは良くないので、深くは悩まないようにしよう。悩むことも時には大事だけれど、それ以上に行動することが大事だ。

 

この問題を解決するためにできることは、相手を変えることではなく、自分の考えや行動を見直してみること。親切をする時は相手の立場に立って行動し、親切を受ける時は相手の立場に立って善意を汲み取る。

 

機転と余裕の両方を持ち合わせた、ハイブリッド人間になりたいものである。