すべてが僕のチカラになるブログ。

「人生」「物語」を中心テーマに、日々感じたこと、考えたことをなんでも書き綴ります。

理想や夢を見たっていいじゃない。だって、人間だもの

前評判の高いものというのは、得てして上がり過ぎたハードルのせいで思ったよりそれほどでもないなと感じてしまうことが多々ある。

 

逆にそれほど期待していなかったものが予想以上に面白かったりすると「おっ」っとなる。

 

 

最近観ているアニメは、わりとその「おっ」の部類に入るもので(とは言ってもそれほど数多く観ているわけでもなく、面白くないと感じたものは見切っているのだけれど)、僕の日常にささやかな彩りを添えてくれている。

 

「結城ゆうなは勇者である」(以下ゆゆゆ)はその一つで、自分好みのキャラクターがいるという理由から見始めたため、シナリオにはさほど期待していなかった。

 

数話観て、おそらくこれは「魔法少女マドカマギカ」からかなりインスピレーションを受けた作品だと気づく。「マドマギ」に関しての僕の感想はむしろ前者で、前評判がすごく、ハードルを上げて視聴した分、今ひとつ心に突き刺さらずに終わった感があるのだけれど、それは当時の自分の感性に問題があっただけなのかもしれない。

 

「マドマギ」、「ゆゆゆ」は共に「無垢な少女達が大切なものを守るために残酷な現実と向き合わされる」物語なんだと思う。とりわけ美少女という希少性が非常に重要。純真さと神聖さ(男から観た場合は特に)の両方を兼ね備えており、それが十代のある時期のみしか与えられない儚さや希少性こそが「少女」なんだなぁと思うんだよね。そこに美しいが組合わされば、そりゃもう神々しさを帯びるわけで、美少女達が奮闘する姿というのが、オタク心をくすぐらないはずがない。

 

身も蓋もない言い方をしてしまえば、美少女達が繰り広げる物語だから成り立っているわけだし、アニメだからこそ許容されるキャラクター性(登場キャラ全員が嫌な部分一切なく思いやりを持ったいい子ばかり)だとか、ご都合的な展開もあるんだけれどね。数年前の気持ちが擦り切れてやさぐれていた自分では、ちょっと感動できなかっただろうなコレっていう。

 

それでも感動しちゃうのは、大切な人を守りたい、大切な人と心を通わせたいって望んでる自分がいるからなんだろうなぁ。それはやっぱり全ての人が持ってるものだと思うんだよね。孤独な人や孤独になりたいと本気で思っている人がいたとしてもね。

 

なんだか、登場キャラクター5人にそれぞれエピソードがあって、どのキャラクターのパートにもグッときてしまうものがあったりもするんだ。

多分、それぞれのエピソードどれをとっても、誰かとの繋がりを主軸に描いているからなんだろうな。

 

各キャラクター(声優)バージョンのEDソングが用意されていたり、最終回では全員で合唱したり、同じ音楽でも歌い手ごとに特徴があったり、個性とからしさとかって、凄く良いなぁ、尊いなぁって感じたり。

満開システム(勇者の力が覚醒することと引き換えに体の機能が欠損してしまう)をいつか作りたいと思っているオリジナルのRPGに組み込めないだろうかだとか、なんだか色々なことを感じさせられたなぁ。

 

そうそう。勇者といえば、ドラクエ。最新作で「勇者とは最後まで諦めずに立ち向かった者のことです」みたいな台詞を言われるシーンがあった。

「ゆゆゆ」も最後まで諦めずに戦った「結城ゆうな」のくじけぬ心が世界と日常を救った。

 

自分は、勇者にとって一番必要な素質は「勇気」なのかと思っていたけれど、最近は少し違うのかもと感じてい

る。一歩踏み出すとき、人生の岐路に立たされた時に決断する時に「勇気」はもちろん大事だけれど、それ以上にどんな結果や困難が待ち受けていても最後まで諦めず、くじけずにやり通す「覚悟」の方が勇者にとって必要な素質なのかもしれない。

 

人生には苦難と困難がつきものだから(もちろん楽しいことや素敵なこともある)、くじけず、最後まで諦めない「覚悟」を持った、自分の人生の勇者でありたい。

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人はなぜ嘘をつくのか

以前、そんな見出しの書かれている雑誌を読んだ。

 

端的に言うと、嘘をつくことで何かしら利益が得られると思っているからというのが大体の理由。嘘をつく理由の役90パーセントは自分のためであり、約5パーセントは他人のため、残りの5パーセントは何故嘘をついたのか自分でも良くわからないというグラフが載っていた。

 

90パーセントが利己のために作られる嘘の中で、他人を庇ったり気遣ったりするための5パーセントに人間の救いを感じられたような気がした。

この5パーセントがあるから、僕は自分も含めて人間というものを心底嫌いにならずにいられるのだと思う。

知らないふりだとか、気づかないふりだとか、真実を伝えないということをあえて選択するのは、思いやりの中から生まれるものだと思うから。(これらが嘘であるかどうかは別として心はざわざわするよね)

 

自己保身だとか見栄だとか人間関係だとか、大人になれば、社会で生きて行くために時として嘘をつく必要にかられることがある。その一方で、嘘はいけないことだと教育もされる。嘘はアウトだけど、脚色(いわゆる盛るという行為)はセーフと見なす動きもある。虚偽の情報を伝えることは当然嘘になるけれど、真実を隠すことは嘘ではないという見方もある。

 

この辺り、何が嘘で何が嘘じゃないか、もの凄くグレーで曖昧だったりする。着目すべきは、嘘か嘘じゃない云々よりも、その情報によってもたらされた結果なのかもしれないけれど。

 

今ほぼ日で掲載されている「嘘ってなんだ?」の中で、マジシャンの人が嘘にはコストがかかるから、正直に生きた方が得をする可能性が高いという見方も非常に面白い。

 

嘘をつくことはいけないかどうかは別として、嘘をつくと心が落ち着かないし、嘘を突き通す人生なんてのは、なんだか悲しい気もする。人は他人だけじゃなく自分自身をも欺き通すことができてしまうからね。

 

なるべくなら、自分にも他人にも正直に生きられるの良いと思うんだ。

 

 

子供の頃は

何でもできるような気がしたし、何にでもなれるような気でいた。

 

もちろん、30歳近くにもなれば、そんなのは現実を認識できていない子供の「思い込み」だって理解してはいるのだけれど、そんな風に考えてしまう自分、理解してしまっている自分がちょっと寂しい。

 

ふと思ったこと。

 

子供って、ほんとに元気でエネルギーに溢れている。

 

特に朝っぱらの異常なテンションの高さとか、元気とか、大人にはなかなかないものだと思うんだ。

 

きっと、自分も子供の頃は朝からめっちゃ元気だったり(あまりそんな記憶はないけれど)今では考えられないような無茶なことをしていたのだろう。(そう言えば、小学五年生くらいまで年中短パンで過ごしていたなぁと思ったり)

 

大人に近づくにつれて、いい加減朝っぱらから騒ぐなんてみっともないよな(こういうことは中学生くらいから意識するようになった気がする)だとか、そういう考えが最初に生まれて、そういう日々を過ごすうちに、いつの間にか元気の出し方を忘れて、元気のない朝が当たり前になって、今はもう朝からはしゃごうとしてもあんな風にエネルギッシュになれない気がする。

 

まぁ、まだ自分の中で格好をつけたり、理性を働かせている部分もあるんだろうけれど、よしんば一日そういう日を過ごせたとしても、翌日も続けられるかはかなり怪しい。

 

そもそも子供は「朝から元気を出そう」などと考えずに、自然と元気を作り出しているわけで。「朝から元気を出そう」と意識して作り出した元気は、もうその時点で純粋なエネルギーではない気がする。

 

きっと、子供が朝から元気なのは、毎日新鮮なことだらけでワクワクしているからなんだろう。

 

子供の頃は、現実を悟った気になって、それなりのところで落ち着いて、夢も希望も持たずに疲れた顔で毎日を過ごす「つまらない大人」なんかにはなりたくないし、決して自分はそんな風にならないと思っていたはずなんだ。

 

なんだかそうやって、大人になる過程でいつの間にか忘れてしまったことや、どこかに置き忘れてきてしまったものがたくさんある気がする。

 

必要ないものならいいけれど、大切なものはなるべく失わずに進みたい。

 

もちろん、大人になる過程で手に入れたものや、拾い集めたものもたくさんあるのだけれどねぇ。

 

 

 

イブの時間ー劇場版

元々は短編連作でウェブ公開されたアニメーション作品の劇場版。

 

ストーリー

未来、たぶん日本。
ロボットが実用化されて久しく、
人間型ロボットが実用化されて間もない時代。

 

ロボットを人間と同じように扱う人間(作中ではドリ系と称されている)に対して差別的な時流。ロボットと人間を区別しない、「イブの時間」という喫茶店で繰り広げられる人間とロボットの群像劇。

 

数年前にもDVDをレンタルして視聴したのだけれど、当時はそれほど印象に残らなかった。当時の自分の感受性の貧しさ、読解力のなさを痛感させられる。設定の部分にツッコミどころがないわけではないけれど、色々と感慨深い話で大好きになった。

 

タイトルからクリスマスに関係ありそうな気がするけれど、全くそんなことはなかったりする。なんとなく、クリスマスに見たい気分だったのだけれど、もたもたしているうちに年を明けてから再視聴するに至った。

 

自分の中で突き刺さったシーンは大きく3つ。

 

ピアノを挫折してしまった主人公が、色々な思いを振り払って一心不乱にピアノを演奏するシーン。

自分は、葛藤の中でもがくキャラクターが何かをきっかけに吹っ切って、自分の思うままに行動する瞬間にもの凄くカタルシスを覚えるタイプなんだろうと気づいた。「葛藤する時」というのは、大概が頭でモノを考えている場合なんだと思う。自分が満たしたい欲求に大して、理性や現実的な観点がノーを突きつけているような状態。それらから解放されて、ただただ純粋に「ピアノを弾くのが楽しいから」という理由で小気味好く鍵盤を叩くシーン。その純粋な気持ちの演奏が周囲の人間を笑顔にしたり、感動させたり、認められたり。

 

不法投棄されたロボットが喫茶店に訪れるシーン。

「記録」と「記憶」の違いについて考えてみると、そこに人間らしさが現れているような気がして色々と面白くもある。機械がしていることはあくまで「記録」なんだろうけれど、そこに「思い」みたいなものが宿ると「記憶」に変わるんだと思う。主観の入る余地のない「記録」は正確さが担保されているものだけど、主観が入る「記憶」は大概事実との隔たりがあったり捏造されていることが多い。

不法投棄されたロボットとのやりとりはコメディチックでありながらも、切に何かを訴えかけられる。消去された記録を引っ張りだそうとした結果、ショートしてしまったロボットを喫茶店の女性店主凪が抱きしめるシーンはグッときてしまう。

抱きしめるって言う行為は、その人の悲しみや怒りや憎悪や寂しさなんかの、凍てつくような負の感情を溶かすことのできる、限りなく相手に寄り添うスキンシップなんだと思う。「あなたは一人じゃないんだよ」って、こんなにも的確に表現できる行動方法は、きっと他にない。

 

主人公の友人が、長年に渡って抱いていたロボットに対する疑念が晴れるシーン。

果たしてロボットに感情はあるのか、という問いの回答シーンとも言える。ずっと秘められていた思いを告げられるという場面は、それだけで泣けてくるのだけれど、なぜかロボット相手だとさらにグッと来てしまう。これって多分、エヴァンゲリオン綾波レイが笑ってくれるあの名場面に近いものなんだと思うんだ。

何を考えているのか全然分からない相手とコミュニケーションとれたことがとにかく嬉しくて、自分の投げたことに、自分の期待した反応が返ってくるって、こんなにも嬉しいものなんだって感じさせられたりする。

 

結局、人間は何かしらとコミュニケーションを取りたいんだよねぇ。

 

感情の根源というか、第一次の部分は「寂しさ」にある、という記事を読んだことがあるけれど、つくづくほんとにそうだよなぁと思わされる。自分のしたことに対して、何の反応も返ってこないって、きっと一番寂しいことだよ。だから人は山に登ったら、ついつい叫びたくなるんだと思うんだ。

 

アンドロイドを突き詰めて行く過程では、人間というものに対する理解が欠かせないわけで。人間に似せれば似せるほど、人間との違いが浮き彫りになってくるのがまた面白い。その一方で、限りなく人間に近づいたアンドロイドは、表面上人間との違いがないようにも見える。そうなると、人間とアンドロイドの違いは、もう内面の部分だけで、本当にそれを感じているか、抑制できない気持ちがこみ上げているのかどうかに委ねられるんじゃないかな。

 

結局のところ、<人>から<限りなく人間に近づいたアンドロイド>を差し引いた時に残る部分、<限りなく人間に近づいたアンドロイド>が模倣しきれない部分っていうのが「人間らしさ」ってことになるんだと思う。多分それは本物の感情だとか不完全さってところに行き着く。

 

それはさておき、主人公のホームメイドであるサミィ。

普段の感情を微塵も感じさせない事務的な対応と喫茶店での人間味溢れる反応とのギャップ萌えが凄過ぎる。

あんな描かれ方をされたら、もう本当にアンドロイドと人間の境目はないように思えてしまうんだ。自分の中でいくつかあるキャラの使い分け、恥じらい。

 

「ユーモア」と「恥じらい」の感覚って、一番人間味を感じさせられるような気がして、ここはそう簡単にはAIに理解できない部分だと思うんだよね。

 

とにもかくにも、ロボット(AI)を通してあらためて人間を考えさせてくれるいい作品。今はまだSFの範疇だけど、ロボットの技術はどうやらものすごい勢いで進化しているみたいなので、近い将来作中のような未来がやってくるかもしれない。

 

 

2018年

新年も早いもので一週間が過ぎた。

 

時間の過ぎ方は年々早くなっていく。

 

何かしらの目標や強い意志を持って日々を過ごさなければ、あっという間に一年が終わるだろうなと感じる一方で、まぁ気楽に平穏にそれなりに過ごせればいいじゃんと思っている自分もいる。

 

とりあえず、文章の構成だとか論理的な構造だとか、難しいことは取っ払って、なるべく率直に感じたことを飾らずにここに書き残すよう努めたい。

 

そうは言っても、誰かしらに見られる可能性のあるブログに書くわけだから、その日自分が感じたことの中で、人に伝えたいと思ったことが大筋になるのだろうけれど。

 

自意識過剰な自分はどっかしら他人に見られていることを意識すると格好をつけてしまうところがあるので、その辺りを自制しつつ、年の瀬にこのブログを読み直して、あの時こんなこと思ってたな、考えたな、やってたなぁと振り返れる、備忘録として綴っていければいいな。

 

 

 

表現するとは一体なんなのか?

そんなことを漠然と考え始めたのが、だいたい一年くらい前のことで、ここ最近は「表現する」ってことを、それなりに意識して生きているように思う。

 

表現者」なんて言葉にすると、芸術家だとかクリエイターだとか、なんだか随分と格好の良い職業に就いている人達だけを指すような感じがするけれど、生きていれば誰だって「表現者」なのだとか。

 

見た目にはパッとしない地味な仕事も表現の一つだし、一見すると何一つ表現していないように映る「引き篭もる」という行為一つとっても表現と言えるらしい。

 

とある脚本家のコラムにそんなことが書かれていて、僕は少しだけハッとさせられ、表現ってそもそもどういうことなのか、なんてことを頭の片隅で考えながら生きていた。

 

僕なりに考えた「表現って一体なんだ?」の答えは「自分の思考や感情を他人にも認識できるように何かしらの形にすること」だった。

 

絵を描いたり、音楽を奏でるという如何にもそれらしいことから、日常で頻繁に行われる会話や着ている服や髪型に至るまで全て表現。料理を作るということも表現ならば、食べるという行為もまた表現と言えるし、もっというならば空腹時にお腹がグーッとなるのも表現の一つなのだと僕は思っている。

 

そして、その表現が素直にできなかったり、あるいは表に現れないように隠そうと努めたりするのが人間の悩ましい所であり、愛すべき面白い部分でもあるのだと僕は思う。

 

相手に正確に意図が伝わるか、伝えるかは別として、とにかく何かしらのアプローチが行われたならばそれは表現と言って差し障りがないように思う。

 

そんな風に、僕なりにではあるが結論を出した「表現」というものに、最近新たな解釈が加わった。

「おとなの小論文教室」というものに書かれていた一文。「表現」っていうのは「生きる」っていうことにものすごく似ていると思うんです。

 

うーん、なるほど。

 

多分、「生きる」っていうことも「表現する」っていうことも、感じとってくれる相手がいないと成り立たないことなんだよなぁ。

 

僕なりの解釈でいくならば、仮に自分一人で料理を作ってそれを自分一人で食したとして、それが「表現」になるかと言われれば恐らく否ということになるわけで。「生きる」という行為もまた、自分を認識してくれる「誰か」有りきで成り立っていることなんじゃないだろうか。

 

少し小っ恥ずかしい言い方をすると「生きる」=「存在の証明」だとかいうことになっていくわけで、「存在の証明」=「表現する」なのだと思う。人は日々の中で、無意識に表現を行い自身の存在を他人に証明している。そういう表現の一つ一つを意識して生きてみると、結構面白かったりもする。

 

この文章もまさに表現方法の一つなわけで、まだまだ上手く纏められないし、書くのも大変だけれど、色々と発見できたり、思考が整理されたりで面白い。

 

なんだかものすごく厨二っぽい内容になってしまったけれど、僕はもうしばらくこんな感じで生きていくのだと思う。(もしかすると死ぬまでずっとこんな調子かもしれない)

 

そんなわけで、今日も僕はそれなりに生きていて、ここに存在している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ICOは多分、神ゲー

長らく更新が滞ってしまったブログ。

 

書きたいことはボチボチ思い浮かぶのだけれど、文章をそれなりにきちんと纏めようと思うとなかなかに労力のいる作業だったりするわけで、書き続ける意義や意味をしっかり考えないと継続は難しいなと痛感させられる。(文章に限らず何でもそうだけど)

 

暑さで少々ダレ気味な日々の中で、感じる力と意志力が低下気味な感も否めない。

 

ここ最近、面白いと感じた一文がある。糸井重里氏とジャパネットたかたの元社長との対談中に交わされた『「感じる」が「思う」になり、「思う」が「考える」になり、「考える」が「行動」に繋がる』というもの。大元の「感じる」が抜けている行動は空虚なもので終わる可能性が高いし、「感じる」を抜きに「考える」をいくら繰り返しても行動には繋がらない。


頭では分かっているけどなかなか実行できないっていうのは、わりとこのパターンに当てはまっていたりするんじゃないだろうか。

 

何をどう感じるかは人それぞれだけれど、なるべく色んなことにアンテナを張り巡らせて、鋭い感性で日々を過ごしたいものである。

 

そんなわけで、今回は「体感するメディア」ゲームの話に繋げてみようと思う。

 

PSNowの利用権がセールになっていたので加入し、ずっとプレイしたいと思っていた「ICO」をプレイ。本作は「ワンダと巨像」や「人喰いの大鷲トリコ」などを制作した著名なゲームデザイナーの作品だ(初作品なのかは不明だが、発売年度は2001年と15年も前のものである)。ちなみにまだ2時間くらいしかプレイしていない。

 

プレイヤーは廃墟に閉じ込められた少年を操作し、敵の妨害を避け、マップの仕掛けを解きながら脱出を試みることが目的。早い話がゼルダの伝説のような謎解きアクションなのだけれど、ICOICOたらしめている理由は、共に脱出する少女を用意したところにある。

 

少女はマップの要所に設置された扉の鍵を開く力を有している。しかし、少女は基本的に受動的かつ無抵抗な存在なので、プレイヤーは謎の敵達(こいつらは少女を攫いにくる)から少女を守りつつ先導する必要に駆られる。

 

この「誰かを守りながら」という部分がおそらく「ICO」の最大の特徴で、もの凄く感嘆させられた部分。

 

少年は身軽でアクロバティックなアクションができるため、一人ならばスイスイと先へ進むことができるのだけど、少女はそういうわけには行かない。天井からぶら下がっている鎖をよじ登ることができないし、少し距離のあるジャンプには勇気づけをして手を差し伸べてあげる必要がある。

 

要するに、今までのアクションゲームのようにプレイヤー(操作するキャラ)だけが先へ先へと進めば良いというものではなく、必ず少女側の視点に立って、助けてあげる幅広い視野が求められるゲームだったりする。

この仕組みはゲーム性としても面白いのだけど、それ以上に共同体感覚、一心同体ともいうべきもの、もっと厳密にいうと人が誰かを支えてあげること、守ってあげること(その難しさや尊さ)を体感できるゲームと言っても過言ではない。


さらに、キャラクター設定が曲者なのだ。

 

少女はゲーム開始時に突然登場するため、主人公の少年とは一切の関わりがない。それなのに、プレイヤーは(特に思春期の男子ならばきっと)この少女を必死で守らなければならないという衝動に駆り立てられることだろう。
純白のワンピースに身を包んだ少女の体つきはか細く、其処彼処にあどけなさが漂っており、言葉数も少ない。囚われの身であり、謎の影(敵)に終われているという設定がミステリアスな雰囲気を助長する。


少年に手を引かれて歩く時の少女のたどたどしい足取りは、今にも散ってしまいそうな儚げな花のようで、見ているだけで不安になる程である。おまけに少女は危機感にも乏しい感じなので、自分がどうにかしなければという気持ちがより一層掻き立てられる。

男としては何が何でも死守しなければいけないような、か弱き乙女設定に僕はまんまと制作者の思惑に嵌められてしまっているのだろう。

 

そう考えればICOは、迫り来る魔の手から女の子を救出するシチュエーションに憧れる、ピュアな少年心を満たしてくれるゲームでもある。

 

さらに言うなら、主人公がまだまだ未熟な少年なのもミソになっていたりする。
主人公が百戦錬磨のヒーローならば、少女一人守ることなど造作もないことなのだけど、なにぶん本作の主人公は自分の身だけならどうにか守れるだろう程度の少年。年齢設定も(あくまで見た目上だけれど)少女よりも年下。手に持つ武器はどこにでも転がっているただの棒切れ一本。そして何より、少女の手を引いて走る時の二人のアンバランスな感じにこそ、ICOの全てが凝縮されているように思う。
「まだまだ未成熟な少年が、戦闘能力危機回避能力ゼロの少女を守る」という心許なさが、一歩進むごとに何が待ち受けているか分からない恐怖感に拍車をかけている。(まるでお化け屋敷を進んでいるかのような感覚がある)

 

計算され尽くしたキャラ設定のおかげで、合理性(システム側)だけでなく、感情の面からも少女を守らなければいけない理由が作られるため、こっちももうとにかく必死にならざるを得なくなる。

 

少女が崩れた足場(ほとんどの場所が落ちるとまず助からない高さ)を飛び越える時は毎度、ジブリの高所危機一髪シーンを見るかのような竦む思いを覚え、敵が襲来する場所では、夜道を恋人と共に歩いている最中、DQN数名に絡まれたかのような謎感覚で、少女を背に必死に木の棒を振り回している。

 

スマブラの作者の桜井政博氏が、扱うキャラクターの重量感によって操作感が異なる感覚(例えばガノンクッパなんかは重く感じ、カービィピカチュウは軽く感じる)のことを「コントローラのスティックが重くなる」と表現していたけれど、ICOをプレイしていると毎回それに似たような感覚に襲われる。

 

上記の場面、前者では叫び声をあげると共にボタンを押す指先に目一杯力を込め(レースゲームで曲がる方向についつい体を捻ってしまうようなもの。システム上は何の意味もない行為)、後者ではみっともないくらいにボタンを連打してゼェハァ息を切らす自分がいる(それくらい少女が敵にさらわれ、影に飲み込まれてのゲームオーバーは後味が悪く感じる)。

 

アクションゲームに対する感性がズバ抜けている人が作るゲームはほんとに凄いと思わされる(ほんとに細かい部分で色んな工夫がなされている)。

 

その中でもICOはプレイヤーの感情とシステムの結びつけ方が絶妙過ぎて、とにかくピンチが訪れる度に必死にさせられ、アドレナリンがものすごい勢いで分泌されているのを感じる。まさに感情に訴えかけるゲームの真骨頂をここに見たような気がした。(セリフやシナリオ要素がほとんどないのに、システムのみでそれを表現している)

 

長々となってしまったが、このゲームの本質は「女の子を守るために必死になれる瞬間」にあると僕は感じた。

 

もう少し突き詰めると「大切な人を守るために必死になれる瞬間」とでも言うべきか。

 

感情のトリガーとして男女の情緒を利用しているため、男性の方がより没入できる作りになっているのだけれど、庇護欲のある人なら女性でも十分楽しめるはずだ。

 

最後に。

ゲームの中だけじゃなく、現実でも「大切な人を守るために必死になれる瞬間」が訪れれば良いんだけれど……。

 

セーブポイントは二人がけのソファ。ビジュアル的にもオシャレだし、情緒もバッチリ。一人で先に進んでも、少女を隣に座らせないと(ちゃんと連れてこないと)セーブできない仕様になっているシステム設定。完璧な演出。