すべてが僕のチカラになるブログ。

「人生」「物語」を中心テーマに、日々感じたこと、考えたことをなんでも書き綴ります。

纏まらなくてもブログに書いてみる

f:id:yamazaki1programing:20180919120544j:plain

なるべく毎日ブログを更新したいのだけれど、なかなかそれが続かない。

 

多分、ブログを書く上でのハードルが上がり過ぎているのだろう。

 

書こうかなぁと思うこと(ネタ)はいくつか思い付くし、メモも取ってある。纏めようと試みる時間も作るのだけれど、上手く纏めるのが難しかったり、あるいは自分の中でもその疑問や着想に対して明確な答えを出せていなかったり。

 

で、やっぱり上手い人、為になるなぁということを書かれている人のブログや日記はきちんと纏まっていて、読み手の共感やあるあるを誘う出来事から入り、自分の場合はどうかという自分語りに移行し、最後にはその人なりの答え・結論をポンと一文で表現していたりする。

 

構造としては理解してもそれをマネするのは難しい。この辺りは(何事もそうなんだろうけど)日々、実践を積み重ねて技術を磨いていくしかない 。

あとは上手い人と比べ過ぎて、『自分の文章や着眼点なんてどうせ誰にも読まれないし……』などと卑屈になるのもいけないな。僕は特に人と比べてしまうきらいがあるので、この辺りは特に気をつけないといけない。最悪、少なくとも未来の自分は読み返すよ、と言うことを常に念頭において書いてみること。

 

とりあえず、今は答えが出なくともふと思い立ったことや引っかかりの部分でも書いていければと思う。

 

ブログのネタ用にメモしておいたり、あるいは疑問として出力しておくと、そのことが心のどこかに留意して、日常のふとした拍子に何かと結びついて答えが見えてきたりすることもある。

 

そういう発見が、人生を面白く豊かにしてくれる要因の一つだと僕は思う。

メロディの不思議な魔力

f:id:yamazaki1programing:20180905101527j:plain

アニメ「化物語」を数年ぶりに再視聴している。(といっても、以前も最後まで観なかったし、現在も4話目くらいまでしか観れていないのだけれど)

 

原作の著者である西尾維新の作品は、決して僕好みではないと思うのだけれど、化物語戦場ヶ原ひたぎというキャラが(これも決して僕好みではないように思うのだが…)強く印象に残っていたこと、作品への評価の高さから、ふと気になって観はじめた。

 

内容云々についてはともかく、僕がグッと好きになったのは、1・2話(ひたぎ回)のOP曲。一度聞いただけで、なんだか凄く親しみを覚える旋律に不思議なものを感じつつ、歌詞は恐らくヒロイン戦場ヶ原ひたぎの心理を表現したものだと思うのだけど、それがまた良い。

 

戦場ヶ原ひたぎは、他人を寄せ付けないオーラを発し、クールで達観しており、主人公に対して容赦のない毒を吐く。一切の恥らいを見せることなく飄々した態度で自身の裸体を主人公に見せつけ、動揺する主人公をからかってみせるという、かなりぶっとんだキャラ設定だ。

 

そのひたぎが持つか弱さ(第二話終盤にもその一面は観られるわけだけれど)、抱え込んでいるもの、不安定な内面を表現したのがこのOP曲なのだろう。もし気になられた方は、「staple stable」で検索していただければ、Youtubeなりで聴けます。

 

僕はそういうキャラクターの内面や本心、秘めた気持ちの核に触れられるキャラソンが好きなんだろうな。

 

もっと言うと、結局のところ、自分という人間の内面や本心(自分らしさ、とでも置き換えるべきだろうか)を上手に表現できない不器用な(さらに言えば他者に依存しがちな不安を抱えている)キャラクターに共感を抱くのだろう。

 

ここまでの話がタイトルにどう繋がるのかと言うと、メロディに乗せると普段は小っ恥ずかしくて言えないことも平気で伝えられたりするし、聴く側としても素直に耳を傾けて受け止められる。

 

言葉は他者に思考や気持ちを伝えるための最適のツールだけれど、どこまでいっても記号でしかない。

 

メロディは言葉(詩)に血の通った温もりを与え、言葉と感情との絶対的な隙間を埋める役割を果たし、伝えたい言葉を心にダイレクトに染み渡らせる。

 

メロディにはそういう不思議な魔力があるよなぁという、今さらながらのお話でした。

 

 

 

日記を書いておくのは、大事だと感じる瞬間

f:id:yamazaki1programing:20180903101620j:plain

去年、僕は色々と日記を書き残すということについて模索していた。

 

日記のハウツー本を読んだり、僕の好きなゲームMOTHER2のデザインカバーを付けた手帳を購入したりと、日記を楽しく面白くつける方法を探していた。

 

しかし、毎日日記を書くという習慣は残念ながら身につかなかった。

 

そもそも、なぜ日記を書こうと思い立ったのか、その根拠が明確ではないようにも思う。

 

恐らく、日々の小さな気づきを大切にし、成長していく自分の過程を記しておきたかったのだと思うのだけれど……そうなってくると、何か特別な、意味のあることを書き残そうと意識しすぎて、書くことを難しく捉えすぎ、結局何も書けなくなる。

 

書かない日が一日できてしまうと、翌日も書けない、書かない、日記帳を手に取るのが、開くのが、億劫になるという連鎖だったように思う。

 

この辺りに関しては、日記を書く技術や習慣の作り方を参考に改善していくべきなのだろう。

 

そちらについてはともかく、途切れ途切れになっている日記を読み返していると、その時々で悩んでたことや必死になっていたこと(今思えば、驚くくらいなんでもないことで悩んでたりする自分がいる)、あるいは風邪を引いて体調が悪化したことなど(一年後には本当に忘れていたりする)を思い出す。

振り返った期間が一年程度だったから思い出すに近い部分もあったけれど、”かつての自分と再開する”と表現した方がしっくりするように思う。

 

”過去の自分”は遠くなればなるほど、”別の私”になっていく。

 

その”過去の自分”と”今の自分”を繋ぐのが、日記の役目の一つなのかもしれないなと思った。

 

”過去の自分”と”今の自分”の変化の軌跡を振り返ることに意味があるのかないのかは分からない。ただ、僕にとってはわりと重要なことのように思う。

 

日記には、西洋医学の薬のような即効性はない。けれど漢方薬のように後からジワジワと効力を発揮する、と心得て日々を綴りたい。

ミニマリズムの実践

f:id:yamazaki1programing:20180901134813j:plain

最近、モノを減らそうと思いはじめた。

毎日10分、部屋を片付ける時間をつくり、部屋の中からモノを徐々に減らしている。

 

きっかけは、習慣づくりの回で取り上げた佐々木典士さんの「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」を読んだこと。

 

この本を読む前から薄々思っていたことではあったが、読んだことにより改めて、ヒトとモノ(所有物)は色々な部分で直結しているんだよなぁ、と感じさせられた。

 

僕は昔から整理整頓が苦手で、部屋はもちろんのこと、パソコンのデスクトップやフォルダ、スマホタブレット内のアプリもすぐに雑然としてしまう傾向にある。

本書にも書かれていたが、不必要なモノやデータが溢れかえっている状態というのは、間違いなくその人の思考内部を体現していると僕もそう思う。

 

基本的に面倒くさがりで使わなくなったものを捨てる習慣がなく、置いておけるスペースがあるならとっとけの”もったいない精神”が強い。

そのため、いつしか部屋もパソコンも不必要なモノやデータで溢れかえることになる。

 

とはいえ、モノが少ない人=ミニマリストというわけでもない。 

 

この本(著者)の素晴らしい点は、モノが少ないこと=ミニマリズムなのではなく、自分に必要なものは何かを見極めて生きることがミニマリズムの本質だと説いていること。だから、モノが少ないことを自慢することに意味なんてないし、モノが少なければ良いというわけでもない。

 

ミニマリズムの本質は、”自分にとって本当に大切なことは何か”を明確にすることだ。

 

自分の価値観が明確でなかったり、自身に執着する気持ちが所有物にまで浸透すると、捨てられない病が発症する。

そして、使わないものに満ち溢れた汚部屋や不要なデータが散在する気品のカケラもないデスクトップができあがるというプロセスを辿ることに繋がる。

 

逆に言えば、”自分にとって本当に大切なことは何か”、その優先順位を明確にできていれば、部屋が不要なモノで溢れかえるという状態は避けられるはずだ。自分にとって本当に必要ならば、部屋がモノで溢れかえったって良いのである。

 

ミニマリズムの思想に関して触れることで、本当に色々なことに気づかされた。

 

僕はこれから、なるべく不必要なモノを削るということを意識的に行うことになるんじゃないかと思う。そうすることで本当に大切なモノ、かけがえのないモノが何なのか、自分の価値観がより明確に見えてくることに繋がると思う。

 

しかしながら、それと同時に、ヒトは不必要なモノ(物理的なモノに限らず)を抱えながら生きてしまう生き物だとも思う。そこに人間らしさがあるように思うし、僕という人間の核を表しているようにも思う。

 

フィクションを観ていても、僕は不必要なモノを抱えて生きてしまっているキャラクターに共感したり、あるいは情動を掻き立てられることが多い。

 

ここを掘り下げていくと、何か面白いモノが見えてくるんじゃなかろうか。

 

 

自分の人生を生きるということ

f:id:yamazaki1programing:20180830104220j:plain

これは僕や僕の身内に限らず、多くの人がしていることなのかもしれないのだけれど、人はしばしば責任転嫁をしてしまう生き物だと思う。

 

自分は悪くない、と自己肯定するために責任の所在を他人に押し付けてしまうことは、多くの人が経験していることなのだろう。

責任転嫁は、自尊心が強く、失敗や自分の欠点を認められない精神的に未熟な人の逃げ場になっていることが多い。

 

僕も昔はよくこういう考え方をしてしまった。

 

あらゆるモノゴトが上手くいかない理由を周囲の人間や環境、自分の体質のせいにし、

逃げ続け、自分は悪くないと欺瞞に満ちた自己肯定を続け、5年近く引きこもり続けた。

 

今も気をつけないと無意識にこういう考え方をしてしまいそうになる。

 

責任転嫁しないためには、失敗や自分の欠点を受け入れること、周囲の人や環境に感謝の目を向けること。未熟で弱い自分からの脱却。

そして、なにより大切なのは、人生は自分の選択、意志の結果であると強く意識することだと思う。

 

その場(コミュニティ)に留まるということも、逃げるということも、自分の意見を押し通すということも、誰かの意見に迎合するということも、何もしないという無意識の選択肢ですら、自分の選択した道だ。

 

 

その結果について、他人に責任を求めるということは、自分の人生を生きていないに等しい。

 

僕は自分の人生の責任を、他人に押しつけるような人間でありたくはない。

 

 

 

 

ある日の父との話

f:id:yamazaki1programing:20180828115008j:plain

 

先週末、父が一人旅行に出かけた。

 

なんでも、富士山の近辺にある自衛隊の訓練施設におもむき、10式の戦車(僕はまったく詳しくないのだけれど)を観てきたらしい。

 

父は、今年64歳。腎不全を患っており、週に3度人工透析を受けに病院に通わなければいけない体だ。旅行に帯同するメンバーは父の体調について知っている人達ではないらしく、少しばかり気掛かりであったのだけど、僕はそれ以上に父が知り合いや家族連れで行くわけでもない旅行に、能動的に参加したことが嬉しかった。

 

 帰宅後、父は童心に返ったかのような調子で戦車について話始めた。

 

 僕は基本的に、戦車に限らず車というものに興味がないため、あまり上手く聞いてあげることはできなかった。

 

そういえば、戦車を取り扱ったアニメ「ガールズ&パンツァー」もわりとここ最近観たばかりのはずなのに、戦車の知識に関してはほとんど残っていないなぁなどと思いつつ、僕は父との何気ない対話から、改めて自分の価値観について思いを馳せることとなるのだけれど、これはまた別の機会に書き残せればと思う。

 

なにはともあれ、普段(酒が入れば)は”阪神タイガース”のち”政治”時々”テレビ番組”の、お決まりの話模様である父が、別の関心事を持ち出したのだから、また何かの時に詳しく聞いてあげられればと思う。

 

それにしても、僕と父の関心事は見事なまでに逆方向に進んでいるような気もしなくはない。 

 

 

 

 

 

説得と納得の違い

「20歳の自分に受けさせたい文章講義」をオーディオブックで聴いていて思ったこと。

 

読者(人と置き換えていいと思う)は”説得”されたいのではなく、”納得”したい。というお話があった。

 

説得は”頭で理解した状態”で、納得は”心で理解した状態”と言ったところだろうか。

 

気をつけなければいけないのは、自分の人生に対してもついつい説得的な生き方を選んでしまいがちだと言うこと。

 

こうするべきだ、こうあるべきだといった正論で、本心や気持ちに反してや自分(あるいは他人)を追い込んでしまったりということはよくある話だと思う。

 

時にはそういうことをして、無理矢理にでも自分を動かす必要があるのも事実だ。僕のように臆病でついつい足を動かすことを辞めてしまいがちな人間には、なおのことである。

 

でも、できることならば、心から納得した人生を送りたい。