具体的に「大切」にするとは
大切にすると執着するの違いについて書いてみたものの、とある記事を読んで考えがまだ浅かったことに気がついた。
ほぼ日に掲載されていた山田ズーニーの「おとなの小論文教室」コーナーに掲載されていた記事。著者が体験談をおりまぜながら、赤裸々に自分のありのままの気持ちを丁寧に表現している姿が心地よく、とても興味深く読ませてもらっている。
その記事の中にこんなタイトルがあった。
「なにかを大切にするということ」
この間、僕がブログに上げたのと似たようなテーマ。タイムリーな見出しに、僕は吸い寄せられるようにその記事を読みはじめた。
その文中、「なにかを大事にするとは、キモチの持ちようではなく、具体的な行動だ」という一文に思わずハッとさせられた。
以前、僕はかけがえのない存在・モノに対して「執着」ではなく「大切」にしたいと締めくくったように思う。
内容の焦点が「執着」と「大切」の違いだったとはいえ、具体的な行動というものは記述しなかった。
僕にとって、大切にするということは具体的にどういうことなのだろうかと、ふと考えてみた。
今回は特に絶対に切っても切り離すことのできない「自分」というものを大切にするとことについて考えてみたい。
5年以上におよぶ無就労と3年以上におよぶ引きこもり生活に繋がったかつての自分は、本当の意味で自分を大切にはできていなかった。
僕はきっと、“理想の自分像”に執着していた。等身大の僕はものすごくメンタルが弱くて、ちょっとしたことで揺れ動いたり、ウジウジしてすぐに俯いてしまう。
自分の弱さに薄々気がつきながら、認めたくなくて目を背け続けた。強くスマートになんでもこなせる“理想の自分像”にしがみつき、結果的に自分を追い詰めていたんだと思う。
今の僕が思うことは、“理想の自分像”(夢や目標)を追い求めることは決して悪いことではない。むしろ、理想を捨てて良くなることを諦めた人はそこで成長が止まるとすら思っている。
ただ、理想に近づくためには“等身大の自分”を知ることが大事なんだと思う。それを認めずに闇雲に理想を目指すのは、現在地を知らないまま目的地に向かおうとする無謀な行為なんだと思う。
それらを踏まえた上で、僕にとって自分を大切にするというのは心のバランスをとってあげることなんだと思う。もっと具体的に書き出すとするなら、
1. 自分で決めた小さな習慣や目標を継続する。
(目標や夢に少しでも近づくため、日々の努力とそれをきちんと評価してあげる。これは自己肯定感、プラスの感情に繋がる。そして僕は達成感や目標や自己肯定感がないと健全に生き続けることが難しいらしい)
2.無理している自分、欺瞞で塗り固めようとしている自分を見つけたら、現実的な対処を施していくこと。
(ストレスに対しては受け流したり、受け身をとったり、あるいは正面切って鍔迫り合いを仕掛けることで新たな発見や自分の可能性が広がるかもしれない。最悪の場合、逃げ出すことも僕はありだと思っている)
3.夢や目標(人生)には困難がつきものだという自覚を持ち、遠回りする過程を楽しむ余裕とユーモアを持ち合わせること。
(心が疲弊・磨耗することを抑えて、無尽蔵のエネルギーを作り出すことに直結する。失敗してもそこから何か一つ得られれば良い。人生はトライアンドエラーの繰り返しだ)
メンタル面ばかりに焦点を当てたけれど、体と心は密接に関係しているので日々の体調管理も重要になる。
ただ、心は目に見えないからこそより意識して注意深く見守ってあげたい。
これが僕の考える、具体的に「自分を大切にする」という行為だろうか。
そして「自分を大切にする」ということが「他の誰かを大切にする」ということに繋がっていく、と僕は思っている。
相手のことを大切にしているつもりになっていないか、考えてみる
「大切にする」と「執着する」この二つは似ているようで、もの凄く違うことだと思う。
どこがどう違うのかと問われても、明確に言葉にして答えるのは難しいのだけれど、こういう近似値にいるようで、真逆の方向に存在している物や概念というのは往々にあるように思う。
執着するということは、少なからずその人にとって対象となるものが人であれ何であれ『かけがえのない大切な存在』であったということだと思うのだけれど、一体何が大きく違っているのだろうか。
以下は、あくまで僕の意見として読み進めてもらえればと思う。
「大切」からは、伸び伸びとした自由な印象を受ける。対して「執着」からは、何かに囚われているような型に嵌め込まれているような窮屈な印象を受ける。
例えば、落とすと壊れてしまうかけがえのない物を持っていたとする。
「大切」はそっと優しく包み込むようにしながら、落とさないように注意すること。
「執着」はぎゅっと強く握りしめて、落とさないように注意すること。
というのが、僕の思う両者のニュアンスの違い。
ここから思うのは、両者の違いは対象となるものとの距離感なんじゃないかと思う。
「大切」は付かず離れずの絶妙な距離感で、相手の気持ちに寄り添い、受け容れてあげること。
「執着」は相手と自分を重ね合わせ過ぎて(もう少し言うならば、相手を自分の一部として取り込んでいるような状態)、相手の気持ちを自分の気持ちで塗り潰したり、無理やり自分の型に嵌めこもうとするような状態なんだと思う。
執着は、大切に思っている何かを失うことによる不安や恐怖心、あるいは失ってしまったこと対する深い後悔や憎しみなどのネガティブな思い込みによって作られた負の念。
「執着」の思いが自分の型に無理にはめ込もうとする行為に繋がってしまうのも、相手が理想通り、あるいは自分の理解の範疇に収まっていれば安心できるからなんじゃないだろうか。理解の範疇の枠を越えると遠くに行ってしまうような不安を抱えることに繋がる。
ここまでの分析から「執着」はより利己(エゴ)が強く、「大切」は利他が強いように感じられる。
厄介なのは、執着は常に大切にしたいと思うモノゴトに付き纏っているということ。そして、気をつけなければ「大切」にするってことと「執着」するってことを履き違えてしまいがちだということ。束縛なんかは明らかに「執着」からくるものだと思うのだけれど、やっている本人からすれば「大切」にしているつもりだったりする場合も往々にある。
何かに「執着」するということが、必ずしも悪いとは言えない。「執着」するということは、それだけ「特別」に感じていたり「大切」に思えているってことでもあると思うから。すごく人間的であるとも思う。
ただ僕は、かけがえのない存在やモノゴトに対して、「執着」するのではなく、できれば「大切」にして生きたいと思う。
纏まらなくてもブログに書いてみる
なるべく毎日ブログを更新したいのだけれど、なかなかそれが続かない。
多分、ブログを書く上でのハードルが上がり過ぎているのだろう。
書こうかなぁと思うこと(ネタ)はいくつか思い付くし、メモも取ってある。纏めようと試みる時間も作るのだけれど、上手く纏めるのが難しかったり、あるいは自分の中でもその疑問や着想に対して明確な答えを出せていなかったり。
で、やっぱり上手い人、為になるなぁということを書かれている人のブログや日記はきちんと纏まっていて、読み手の共感やあるあるを誘う出来事から入り、自分の場合はどうかという自分語りに移行し、最後にはその人なりの答え・結論をポンと一文で表現していたりする。
構造としては理解してもそれをマネするのは難しい。この辺りは(何事もそうなんだろうけど)日々、実践を積み重ねて技術を磨いていくしかない 。
あとは上手い人と比べ過ぎて、『自分の文章や着眼点なんてどうせ誰にも読まれないし……』などと卑屈になるのもいけないな。僕は特に人と比べてしまうきらいがあるので、この辺りは特に気をつけないといけない。最悪、少なくとも未来の自分は読み返すよ、と言うことを常に念頭において書いてみること。
とりあえず、今は答えが出なくともふと思い立ったことや引っかかりの部分でも書いていければと思う。
ブログのネタ用にメモしておいたり、あるいは疑問として出力しておくと、そのことが心のどこかに留意して、日常のふとした拍子に何かと結びついて答えが見えてきたりすることもある。
そういう発見が、人生を面白く豊かにしてくれる要因の一つだと僕は思う。
メロディの不思議な魔力
アニメ「化物語」を数年ぶりに再視聴している。(といっても、以前も最後まで観なかったし、現在も4話目くらいまでしか観れていないのだけれど)
原作の著者である西尾維新の作品は、決して僕好みではないと思うのだけれど、化物語の戦場ヶ原ひたぎというキャラが(これも決して僕好みではないように思うのだが…)強く印象に残っていたこと、作品への評価の高さから、ふと気になって観はじめた。
内容云々についてはともかく、僕がグッと好きになったのは、1・2話(ひたぎ回)のOP曲。一度聞いただけで、なんだか凄く親しみを覚える旋律に不思議なものを感じつつ、歌詞は恐らくヒロイン戦場ヶ原ひたぎの心理を表現したものだと思うのだけど、それがまた良い。
戦場ヶ原ひたぎは、他人を寄せ付けないオーラを発し、クールで達観しており、主人公に対して容赦のない毒を吐く。一切の恥らいを見せることなく飄々した態度で自身の裸体を主人公に見せつけ、動揺する主人公をからかってみせるという、かなりぶっとんだキャラ設定だ。
そのひたぎが持つか弱さ(第二話終盤にもその一面は観られるわけだけれど)、抱え込んでいるもの、不安定な内面を表現したのがこのOP曲なのだろう。もし気になられた方は、「staple stable」で検索していただければ、Youtubeなりで聴けます。
僕はそういうキャラクターの内面や本心、秘めた気持ちの核に触れられるキャラソンが好きなんだろうな。
もっと言うと、結局のところ、自分という人間の内面や本心(自分らしさ、とでも置き換えるべきだろうか)を上手に表現できない不器用な(さらに言えば他者に依存しがちな不安を抱えている)キャラクターに共感を抱くのだろう。
ここまでの話がタイトルにどう繋がるのかと言うと、メロディに乗せると普段は小っ恥ずかしくて言えないことも平気で伝えられたりするし、聴く側としても素直に耳を傾けて受け止められる。
言葉は他者に思考や気持ちを伝えるための最適のツールだけれど、どこまでいっても記号でしかない。
メロディは言葉(詩)に血の通った温もりを与え、言葉と感情との絶対的な隙間を埋める役割を果たし、伝えたい言葉を心にダイレクトに染み渡らせる。
メロディにはそういう不思議な魔力があるよなぁという、今さらながらのお話でした。
日記を書いておくのは、大事だと感じる瞬間
去年、僕は色々と日記を書き残すということについて模索していた。
日記のハウツー本を読んだり、僕の好きなゲームMOTHER2のデザインカバーを付けた手帳を購入したりと、日記を楽しく面白くつける方法を探していた。
しかし、毎日日記を書くという習慣は残念ながら身につかなかった。
そもそも、なぜ日記を書こうと思い立ったのか、その根拠が明確ではないようにも思う。
恐らく、日々の小さな気づきを大切にし、成長していく自分の過程を記しておきたかったのだと思うのだけれど……そうなってくると、何か特別な、意味のあることを書き残そうと意識しすぎて、書くことを難しく捉えすぎ、結局何も書けなくなる。
書かない日が一日できてしまうと、翌日も書けない、書かない、日記帳を手に取るのが、開くのが、億劫になるという連鎖だったように思う。
この辺りに関しては、日記を書く技術や習慣の作り方を参考に改善していくべきなのだろう。
そちらについてはともかく、途切れ途切れになっている日記を読み返していると、その時々で悩んでたことや必死になっていたこと(今思えば、驚くくらいなんでもないことで悩んでたりする自分がいる)、あるいは風邪を引いて体調が悪化したことなど(一年後には本当に忘れていたりする)を思い出す。
振り返った期間が一年程度だったから思い出すに近い部分もあったけれど、”かつての自分と再開する”と表現した方がしっくりするように思う。
”過去の自分”は遠くなればなるほど、”別の私”になっていく。
その”過去の自分”と”今の自分”を繋ぐのが、日記の役目の一つなのかもしれないなと思った。
”過去の自分”と”今の自分”の変化の軌跡を振り返ることに意味があるのかないのかは分からない。ただ、僕にとってはわりと重要なことのように思う。
日記には、西洋医学の薬のような即効性はない。けれど漢方薬のように後からジワジワと効力を発揮する、と心得て日々を綴りたい。
ミニマリズムの実践
最近、モノを減らそうと思いはじめた。
毎日10分、部屋を片付ける時間をつくり、部屋の中からモノを徐々に減らしている。
きっかけは、習慣づくりの回で取り上げた佐々木典士さんの「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」を読んだこと。
この本を読む前から薄々思っていたことではあったが、読んだことにより改めて、ヒトとモノ(所有物)は色々な部分で直結しているんだよなぁ、と感じさせられた。
僕は昔から整理整頓が苦手で、部屋はもちろんのこと、パソコンのデスクトップやフォルダ、スマホやタブレット内のアプリもすぐに雑然としてしまう傾向にある。
本書にも書かれていたが、不必要なモノやデータが溢れかえっている状態というのは、間違いなくその人の思考内部を体現していると僕もそう思う。
基本的に面倒くさがりで使わなくなったものを捨てる習慣がなく、置いておけるスペースがあるならとっとけの”もったいない精神”が強い。
そのため、いつしか部屋もパソコンも不必要なモノやデータで溢れかえることになる。
とはいえ、モノが少ない人=ミニマリストというわけでもない。
この本(著者)の素晴らしい点は、モノが少ないこと=ミニマリズムなのではなく、自分に必要なものは何かを見極めて生きることがミニマリズムの本質だと説いていること。だから、モノが少ないことを自慢することに意味なんてないし、モノが少なければ良いというわけでもない。
ミニマリズムの本質は、”自分にとって本当に大切なことは何か”を明確にすることだ。
自分の価値観が明確でなかったり、自身に執着する気持ちが所有物にまで浸透すると、捨てられない病が発症する。
そして、使わないものに満ち溢れた汚部屋や不要なデータが散在する気品のカケラもないデスクトップができあがるというプロセスを辿ることに繋がる。
逆に言えば、”自分にとって本当に大切なことは何か”、その優先順位を明確にできていれば、部屋が不要なモノで溢れかえるという状態は避けられるはずだ。自分にとって本当に必要ならば、部屋がモノで溢れかえったって良いのである。
ミニマリズムの思想に関して触れることで、本当に色々なことに気づかされた。
僕はこれから、なるべく不必要なモノを削るということを意識的に行うことになるんじゃないかと思う。そうすることで本当に大切なモノ、かけがえのないモノが何なのか、自分の価値観がより明確に見えてくることに繋がると思う。
しかしながら、それと同時に、ヒトは不必要なモノ(物理的なモノに限らず)を抱えながら生きてしまう生き物だとも思う。そこに人間らしさがあるように思うし、僕という人間の核を表しているようにも思う。
フィクションを観ていても、僕は不必要なモノを抱えて生きてしまっているキャラクターに共感したり、あるいは情動を掻き立てられることが多い。
ここを掘り下げていくと、何か面白いモノが見えてくるんじゃなかろうか。
自分の人生を生きるということ
これは僕や僕の身内に限らず、多くの人がしていることなのかもしれないのだけれど、人はしばしば責任転嫁をしてしまう生き物だと思う。
自分は悪くない、と自己肯定するために責任の所在を他人に押し付けてしまうことは、多くの人が経験していることなのだろう。
責任転嫁は、自尊心が強く、失敗や自分の欠点を認められない精神的に未熟な人の逃げ場になっていることが多い。
僕も昔はよくこういう考え方をしてしまった。
あらゆるモノゴトが上手くいかない理由を周囲の人間や環境、自分の体質のせいにし、
逃げ続け、自分は悪くないと欺瞞に満ちた自己肯定を続け、5年近く引きこもり続けた。
今も気をつけないと無意識にこういう考え方をしてしまいそうになる。
責任転嫁しないためには、失敗や自分の欠点を受け入れること、周囲の人や環境に感謝の目を向けること。未熟で弱い自分からの脱却。
そして、なにより大切なのは、人生は自分の選択、意志の結果であると強く意識することだと思う。
その場(コミュニティ)に留まるということも、逃げるということも、自分の意見を押し通すということも、誰かの意見に迎合するということも、何もしないという無意識の選択肢ですら、自分の選択した道だ。
その結果について、他人に責任を求めるということは、自分の人生を生きていないに等しい。
僕は自分の人生の責任を、他人に押しつけるような人間でありたくはない。