すべてが僕のチカラになるブログ。

「人生」「物語」を中心テーマに、日々感じたこと、考えたことをなんでも書き綴ります。

ある日の父との話

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先週末、父が一人旅行に出かけた。

 

なんでも、富士山の近辺にある自衛隊の訓練施設におもむき、10式の戦車(僕はまったく詳しくないのだけれど)を観てきたらしい。

 

父は、今年64歳。腎不全を患っており、週に3度人工透析を受けに病院に通わなければいけない体だ。旅行に帯同するメンバーは父の体調について知っている人達ではないらしく、少しばかり気掛かりであったのだけど、僕はそれ以上に父が知り合いや家族連れで行くわけでもない旅行に、能動的に参加したことが嬉しかった。

 

 帰宅後、父は童心に返ったかのような調子で戦車について話始めた。

 

 僕は基本的に、戦車に限らず車というものに興味がないため、あまり上手く聞いてあげることはできなかった。

 

そういえば、戦車を取り扱ったアニメ「ガールズ&パンツァー」もわりとここ最近観たばかりのはずなのに、戦車の知識に関してはほとんど残っていないなぁなどと思いつつ、僕は父との何気ない対話から、改めて自分の価値観について思いを馳せることとなるのだけれど、これはまた別の機会に書き残せればと思う。

 

なにはともあれ、普段(酒が入れば)は”阪神タイガース”のち”政治”時々”テレビ番組”の、お決まりの話模様である父が、別の関心事を持ち出したのだから、また何かの時に詳しく聞いてあげられればと思う。

 

それにしても、僕と父の関心事は見事なまでに逆方向に進んでいるような気もしなくはない。 

 

 

 

 

 

説得と納得の違い

「20歳の自分に受けさせたい文章講義」をオーディオブックで聴いていて思ったこと。

 

読者(人と置き換えていいと思う)は”説得”されたいのではなく、”納得”したい。というお話があった。

 

説得は”頭で理解した状態”で、納得は”心で理解した状態”と言ったところだろうか。

 

気をつけなければいけないのは、自分の人生に対してもついつい説得的な生き方を選んでしまいがちだと言うこと。

 

こうするべきだ、こうあるべきだといった正論で、本心や気持ちに反してや自分(あるいは他人)を追い込んでしまったりということはよくある話だと思う。

 

時にはそういうことをして、無理矢理にでも自分を動かす必要があるのも事実だ。僕のように臆病でついつい足を動かすことを辞めてしまいがちな人間には、なおのことである。

 

でも、できることならば、心から納得した人生を送りたい。

 

 

 

海よりもまだ深く

昨日のブログのラストに家族を結束しているバンドの正体は”血の繋がり”なんじゃないかと書いたので、今日は”家族”をテーマに扱った映画のお話。

 

海よりもまだ深く

 

是枝監督の描く”家族”をテーマに扱った映画作品は、なぜだか僕の心の奥底に強く突き刺さる。

そして父になる」も”家族”(厳密には親子かな?)をテーマに扱った面白い作品だったけど、”突き刺ささる”という感覚でいえば、「海よりもまだ深く」と「歩いても 歩いても」の二作だったりする。

 

この二作の共通点は、阿部寛演じる息子と樹木希林演じる母親の配役になっていること。阿部寛の演技には言い知れぬ惹きつけられる魅力みたいなものがあって、個人的に好きな俳優の一人だ。

だから、阿部寛が主役を演じているという要素も大きいのだろうけれど、恐らく僕にとってより痛切に、チクチクと心に突き刺す得体の知れないトゲの正体は、樹木希林演じる母親の方だ。

 

両作で、阿部寛の演じる息子役のキャラクター設定には大きな違いがあったのに対し、樹木希林演じる母親に関して言えば、僕の目にはあまり大きな違いがなかった。

いや、「歩いても 歩いても」の母が夫に対して敬意を持っているのに対し、「海よりもまだ深く」の母が夫に対して諦観や蔑みの念を抱いているという点では大きく違うかもしれないし、それが「歩いても 歩いても」と「海よりもまだ深く」の物語の筋に大きな違いをもたらしているのかもしれないけれど……

そこはともかく、僕が思うこの作の母親の特徴は両者ともに”長年住んだ家を自分一人の力では離れられない母親像”であるということ。

アクティブやスマートさのカケラを感じさせない重苦しさ、保守的、前時代的で田舎気質の、自分が育った時代背景の固定観念を脱却できない、その性格を体現するかのようにあらゆるモノ(家具・雑貨)を家の中に抱え込んで生きている。そんなキャラクター設定。

 

この母親が本音と建前を使い分けて息子の嫁(義理の娘)に接するわけなのだけれど、その表面上を取り繕っている感じのあざとさだとか、時折飛び出す本音だとか、それがうっかりなのかわざとなのか分からない所だとかが、もうなんとも言えないくらい、無性に憎々しい。

 

でも、それでも、両作の母親が共に娘を、そして息子を愛していることもまた事実なのだろう。

 

僕はこの母親の人物像に、是枝監督の描く”大切でかけがえのない愛すべき存在であるけれどそれだけではない、血が繋がっているからこその煩わしさや憎さ伴う家族”(これは多分何かのインタビュー記事か何かに書いてあったと思う)の大部分を見ているように思う。

 

まぁ、なんというべきだろうか。

 

思うことは、あの母親の人物像は、多くの男性にとっても自身の持つ母親像にニア・イコールに見えるのだろうかという疑問、興味だろうか。

 

多分、あれは女性が社会に出ることを許されなかった時代が作り上げた、家の中を守ることを使命としていた量産型(僕にはそう見えてしまう)の母親の成れの果てなんだろうと考察してみる。

 

しかし、どうして、時代が一回り以上も違うはずの自分の心に深く突き刺さるのか……

 

 

 

 

 

コミュニティを結束するバンドの正体

なんだか小難しい話を書いてみたくなった、というわけでもないのだけれど、常々コミュニティというものについて考えることは多かったりする。

 

コミュニティは、人にとっての”居場所”だからだ。

 

家族、友達、職場、学生ならばクラスや部活や同好会なんかが存在する。

 

各コミュニティには集まった人間を束ねるバンド(結束線)が存在すると思う。

それは何か一つ明確なもので表せるわけではなく、配合比率が複雑で曖昧なものなのだろうけれど。

 

友達と仲間の違いは何かと問われれば、価値観や共感性に比重を置いて形成されているのが友達というコミュニティ。

その価値観や共感性をベースに何かしらの目標を共有していれば仲間というコミュニティになる、と今の僕は考えている。

 

これは目標を共有している分、仲間というコミュニティの方が優れているという話ではない。

 

特に目標を共有しているわけではないのだけれど、一緒に居て心地良い”友達”というコミュニティの存在は、先行きの見えない不安定な人生に置いて最良の味方になってくれる。

 

家族というコミュニティの難しい所は、最も身近な場所にあるコミュニティなんだけれど、結束しているバンドの正体が”価値観”や”共感”ではなく”血の繋がり”だからだったりするんじゃなかろうか。

 

ふと、そんなことを思った。

インターステラーとsteins gate に観る相違点

現在放映中のシュタインズ・ゲート ゼロを観ている。

 

原作はもう7,8年近く前のものになっている。

当時はSFとしての面白さやグイグイと引き込まれるサスペンス展開、伏線が見事に回収されていく練り上げられたストーリーばかりに目先が行っていた。

 

それがここ最近ゼロや劇場版〜負荷領域のデジャヴ〜を観ていて、シュタインズ・ゲートの面白さは近未来科学を題材にして人の思い(強い感情)を描くという部分に有るんだと、今さらながら気づかされたわけである。

 

その”近未来科学を題材にして人の思い(強い感情)を描く”というのが、インターステラーと同じテーマを扱っているように感じた。

 

特に「劇場版〜負荷領域のデジャヴ〜」では、ヒロイン・牧瀬紅莉栖が科学者の立場としての信念に抗い、何者でもない己の信念や気持ちに従い、想い人の岡部倫太郎を救い出すという物語である。

 

インターステラーの名場面そうなんだけれど、常日頃からデータや客観的事実を元に合理的な判断を下すことを求められている科学者の彼女達が科学者としての自分を捨てて、”私”という存在の、理屈も裏付けも根拠もデータも何一つ存在しない、ただ内側から沸き起こった論理や合理性のカケラもない熱いハートによって突き動かされるキャラクターの姿が心を揺さぶる。

 

SFには難しい話も多く、理系的な冷たいイメージがあるけれど、そこに描かれている主軸が”人間”であるならば、熱い話はいくらでも作れるんだなぁと感じさせられる二作の共通点。

 

 

 

 

 

 

 

 

ぼくたちは習慣で、できている。 最終章

習慣はルーティン化される。

 

著者の佐々木典士さんは目覚めると共に、ベッドを畳み、マットレスを敷いてヨガを始めるのが習慣になっているらしい。

 

ルーティン化してしまえば、段取り等を決める思考作業を省いて行動に移れるため、習慣になりやすい。

 

起床後の行動、就寝前の行動がルーティン化すれば、リズムの整った生活が送れそうだ。食事も曜日ごとにメニューを決めておけば、何を作ろうか悩む労力が減る。

 

ただし、人間は飽きる生き物なので時折変化を織り交ぜることも必要だ。今日は肉が食べたい、あるいは刺し身が食べたいという欲求を尊重して生きることが、人生に彩りを与えてくれる。

 

本書には他にも習慣を続ける(あるいは辞める)ための様々な技術が書かれている。

 

色々と目から鱗が落ちる内容だったが、技術に関してはさておき、僕が本書で一番感銘を受けた言葉は以下である。

 

習慣には、完成も終わりもない。

 

生きている限り、生き方を学び続けるように、習慣についても改めながら続けていく必要がある。

 

だから、習慣化に失敗したからと言って落ち込む必要はなどないのだ。何がいけなかったのか、自分に何が合わなかったのかを分析して修正し、次に繋げていくことが習慣を作る上で最も大切なのだと僕は感じた。

 

理想の習慣に向けて、トライアンドエラーを繰り返していくことで、ぼくたちは理想の自分へと近づいていけるはずだ。

 

☆最後にあとがきのようなもの

三日間でこの本について、自分なりに思いつくままに書いてみた。

いくつか思ったことについて書き出してみる。

 

・今は書きたいネタのストックがあるからだけれど、読みやすさなどの観点からも一冊分の話は一つの記事に纏めたい。

・本の内容に関しては読めばいいのだから、内容を纏める方向より、ぼくが何に気づかされたかにより重点を置いて書いてみる。

 

どうしても、しっかりと読めるクオリティのレベルにまで仕上げようとすると、僕の力量等では継続できずに投げ出してしまう可能性が高いので、ほどほどに書きたいことを書く、簡易的に纏めるは保ち続ける必要があるのだけれど。

それこそ、読書効果を挙げるために書き出すくらいの軽い気持ちで続けるのが良いと思う。

 

明日も続けるための秘訣は、習慣達成のハードルを無闇矢鱈に上げないことだ。

  

 

 

ぼくたちは習慣で、できている。その2

 

習慣を作る上で重要となるポイントは「トリガー」「ルーティン」「報酬」の3つ。

 

良い習慣であろうと悪い習慣であろうと、習慣にはトリガー(行動を誘発させる要素)が隠されているものだ。

 

ジャンクフードやお菓子を食べたくなるのは、CMや店頭で商品を目にすることが起因になっていることが多いし、 ついついスマホゲームをしてしまうのは、手元にスマホがあることが起因だったりする。

 

夜寝る前の歯磨きは、眠気がトリガーになっているように思う。そろそろ眠くなってきたから歯磨きしないと、みたいな。

 

辞めたい習慣に対してはトリガーとなっている要素を解明し、徹底的に排除する。

 

作りたい習慣に対してはトリガーとなる要素を工夫しながら設置する。

 

なんだろう……良い例えがなかなか見つからないんだけど、スマホゲームのログインボーナスは「トリガー」+「報酬」の両方の要素を担う、ユーザー離れを起こさせないための優れたアイデアなんだと思う。

 

とりあえず、タダで報酬もらえるし立ち上げよう

  ↓

立ち上げたし、ついでにちょっとプレイするか

 

習慣を作り出す際は、この流れを如何に作り出すかということなんだと思う。

 

「トリガー」の役目は”とりあえずほんの少しやろうか”、最初の一歩の行動を促すための動機を作り出すこと。習慣を定着させる上では特に重要なポイントと言える。

 

習慣を作り上げるのは、ゲームの面白さにプレイヤーを導くことと適切なバランス(難易度)を設計するという点において、ものすごくゲームデザインと似ているような気がする。

 

昨日の記事の例にも上げたけれど、ドラクエなんかはゲームの面白さに導くプロセスはもちろんのこと、”地道にコツコツ積み上げる面白さに導くプロセス”なんかも凄くよく練られていると思う。

 

優れたゲームをゲームデザインの観点から研究することは、習慣を作るプロセスや理論を学ぶことにも繋がるかもしれない。