すべてが僕のチカラになるブログ。

「人生」「物語」を中心テーマに、日々感じたこと、考えたことをなんでも書き綴ります。

ドラクエコンサート 後編

前回からの続き。

 

戦火を交えて〜不死身の敵に挑む。が圧巻過ぎる

打楽器こそが臨場感の肝なのではないだろうか。
オーケストラの生演奏初体験者の僕は、生意気にもそんなことを感じとった。

あらゆるものがデータ化できてしまえる情報過多の現代において、生の演奏に求められていることってなんなのか。
今の技術なら、高音質で録音したものがほとんど生の演奏と変わらないレベルの音質で再生できるんじゃないだろうか。(少なくとも僕の耳には多分違いが分からない)
わざわざ現場まで運んで、生の演奏でしか味わえないものってなんなのかっていうのを考えていくと、それはもう「熱」とか「臨場感」とか、その場に足を運んで実際に体験した人にしか分からない皮膚感覚なんだと思う。

それを特に強く感じられたのが通常戦闘曲とボス戦闘曲の二曲、「戦火を交えて」と「不死身の敵に挑む」だった。

その要因が、僕は打楽器にあると分析したのだけれど、これは単に上記ニ曲+序曲を除けば、全体的に静かで穏やかな演奏が多く、結果的に打楽器が参加していない。つまり、オーケストラの演者が余すことなく演奏に参加している曲(瞬間)が臨場感と熱を最も感じられるという、ごくごく当たり前の話に帰結するのかもしれない。

ただ、打楽器系は音だけでなく、腹の底にまで響くような振動を伝えるので、より臨場感に貢献していることは間違いないとも思う。

戦火を交えて」は、心の中に眠っている本能を掻き立てられ、こんなにも平和な世の中で、のほほんと暮らしている自分にも闘争心があるのだなぁと、よく分からない感心をさせられたり。戦闘が長引いた時にだけ聞ける、サビ部分の盛り上がり方は神の領域。

ドラクエ全楽曲の中でも屈指の名曲「不死身の敵に挑む」は、まさに目の前にとてつもない強敵と対峙しているかのような錯覚を覚えるほど、息を呑む、凄まじい迫力を備えていた。

もう、この二曲の演奏を聴いただけで、「ああ、なんだかんだ言っても、RPGの面白さのメインは戦闘にあるんだよなぁ」と、そんなことを否応なしに感じさせられる素晴らしい演奏の連続。

力強く大胆に指揮棒を振るう飯森氏の背中は、戦火の中に身を置き、不死身の敵と相対している戦士のそれに、僕には見えた。

全ての音が寸分違わず途切れ、演奏が終わった瞬間、指揮棒と弦楽器の弓が天井を向き、一斉に動きを止める。それまでの爆発的なエネルギーが、まるで嘘のようにピタリと止み、静寂が訪れる瞬間。あの余韻こそが生オーケストラの醍醐味ではないだろうかと、僭越ながらそんなことを感じたりもした。


・音の不思議(ちょっと変な話)


歌詞のある歌に感情を刺激されるのはなんとなくわからなくもない。
それが音だけで感情を表現したり、揺さぶられたりっていうのが、改めて凄いというか、不思議だと感じる。仮にゲーム未プレイでも、悲しい音楽は悲しく、楽しい音楽は楽しく聴こえると思うんだ。
もちろんこれは、ゲーム音楽に限ったことじゃなく、クラシックをはじめとする全ての音楽がそうなんだろうけれど。不協和音を聞けば心を掻き乱されるし、心地よいメロディには癒しの効果さえある。小っ恥ずかしい詞もメロディに乗せれば案外すんなりと歌えたり、音って一体何者なんだって、そんなことを考えさせられたりする。
考えは、巡りに巡り、そもそも人間が何かを感じるっていうのは、五感から感じとった情報の刺激なわけで、それら一つ一つを精査していくと、結構面白かったりする。
視覚も聴覚も嗅覚も味覚も触覚も、動物的な観点から見れば、全ては生きていくために欠かせない器官に過ぎない。けれど、人はそれらから様々な感情の反応を引き起こす。
文明が発達するほどに、人は、これらの器官をより娯楽的で趣向性の高いものへと使うようになっていく。
そんなことを思ったり。

音を楽しむのもそうだし、もっと単純なところで言うと料理。食べれるものと食べられないもの(あるいは体にとって害のあるもの)を分別するための味覚を、現代人は美味しいものを食べるために機能させている。これからはそういう、より美味しいもの、より面白いこと、より楽しいことがどんどん求められていくようになるんだろうなと思ったり。(すでにそうなっている?)
この辺り掘り下げていくとすごく長くなりそうなので、このくらいで締めておく。

 

 

・30年間積み重ねたもの

初代ドラクエがリリースされたのは、ファミコンの時代。使用できる音源は一度に3トラックまでという制約の元、多くの作曲家達がゲーム音楽の作曲依頼に難色を示す中、すぎやま先生はあっさりと依頼を承諾し、ゲーム音楽の歴史をその手で切り開いた。

当初はドラクエそのものがヒットするのかどうかも分からない状況。本当に小さな部分からの発進だったはずだ。それが、30年の時を経て、大ホールをあっさりと埋め尽くす数の人を集め(それも全国で)、オーケストラによるコンサートが行われている。
そう思うと、もの凄く感慨深い。
すぎやま先生のこういう姿勢から学べることって、いっぱいあると思う。
御歳86(本人はレベル86と表現して会場の笑いを誘っていた)らしいけれど、この先も末永く走り続けていただきたい。

 

最後に

オーケストラの素晴らしさを体感するとともに、改めて、ゲーム音楽RPGドラクエの魅力を実感することができた。

そんな、素晴らしい一日だった。

来年も三重県でコンサートが行われると良いのだけれど。

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ドラクエコンサート 前編


死ぬまでに行ってみたいと思っていたドラクエコンサートが三重県で開催されるということで、迷わずチケットを予約購入。しかも、交響組曲が僕の一番好きなシリーズである「ドラゴンクエストⅤ〜天空の花嫁〜」ということで、自意識過剰とは思いながらも、運命を感じずにはいられなかった。

 

 

・夏の陽射しを受けながら、電車とバスに揺られること約二時間

 

津市の文化会館へと到着。さすがは県庁所在地なだけはあり、周囲の建物も文化会館自体もデカイ。

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会場は世代も性別もバラバラの、まさに老若男女で賑わっていた。中には外国人もいたりと、縦にも横にも幅広いドラクエの人気が伺える。

 

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案内板の写真を大勢の人が撮っていた。捻くれ者の僕としては、つい釣られて撮ってしまうことを悔しいく思いながらも、こんな機会もう二度とないかもと思うと、スマフォを取り出さずにはいられなかったり。

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入り口の前にはドラクエチームからすぎやま先生への花束が。

 

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さすが県庁所在地にある県内屈指の文化ホールなだけはあり、会場の大きさや高さは目を見張るものがある。(写真に撮ると、今ひとつ高さや奥行きがでない……)

 

ところで、飲み屋で偶然隣の席に座った人と趣味嗜好が一致し、意気投合して朝まで飲み明かす。なんて話があったりする。

会場に集まった人たちは、ほぼ例外なく『ドラクエ好き』という共通点があるわけで、

 

「いやー、僕はシリーズの中でも〇〇が好きで」

「あのシーンは良かったですよね〜」

 

みたいな会話が起こっても不思議ではないのだけれど、打ち解けようという雰囲気が起こらないのは時代性なのか、あるいは僕の知らないところではそういうことも起こっていたのだろうか。

打ち解けようとするどころか、何故か隣り合わせになった人達がボソリと話すドラクエ知識を小耳に挟みながら「いやいや、それくらい俺も知ってるよ」みたいな、謎の対抗心が芽生えたりするのが笑えてしまう。

 

きっと誰もが自分が一番ドラクエ大好きって気持ちで会場へ集った勇者達だったんじゃないだろうか。昔は流通の都合から、ゲームショップにドラクエを買い求める人で溢れかえったり、他プレイヤーの存在を意識する場や機会が存在したのだろうけれど、昨今はそういう機会も薄く。認識の上では存在していた全国のドラクエ大好き達がワラワラと集まっている(実体化した)ことが、なんとなく新鮮であり、なんとなく不思議で奇妙でもあった。

 

そんなことを感じながら、いざ会場入り。

 

 

・序曲に震え、愛の旋律に哀愁を感じ、戦闘曲に呑み込まれる

演奏は日本センチュリー交響楽団。指揮者は飯森範親氏。
舞台の中央、壇上で指揮棒を振るう飯森氏はまさに蝶のように舞い、蜂のごとく刺すかのようなキレッキレの動き。鮮やかかつ情熱的で臨場感のある飯森氏の指揮とリンクする日本センチュリー交響楽団の華麗な演奏。

弦楽器の優しく繊細な旋律、力強い管楽器の音色、打楽器が心踊るリズムを刻み、会心の一撃とばかりにシンバルが合いの手を入れる。

CMでもお馴染みのあの「序曲」が、プロの手によって目の前で奏でられる様に僕は感動のあまり鳥肌を覚えた。(しかし、人間の体はなぜ感動すると鳥肌が立つのだろうか)

まさにドラクエコンサートの開幕を彩るにふさわしい、冒険の始まりを予感させるワクワクドキドキの素晴らしい演奏で口火が切られた。

会場の盛り上がりは、早くも最高潮。

演奏は「王宮のトランペット」へと続き、街や村、果てはカジノの音楽まで、観客達をドラクエⅤの世界へといざなう。

聴くだけで楽しくなったり、哀しくなったり、ワクワクしたり、晴れやかなきもちになったり。ゲーム音楽はゲームのとあるシーンやプレイしていた当時の記憶に繋げることができる。音と体験の融合とでも言うべきか、そんな無限の可能性を秘めていることを改めて感じさせられる。

 

・愛の旋律

ゲーム中、主人公が花嫁を選ぶ前夜に流れるBGM。

改めてオーケストラの生演奏で聴くと、この曲から揺れ動く『葛藤』の気持ちが感じとれる。すぎやま先生はその部分を表現しようとして作曲したのだろうし、今さらそこに気付かされる自分は大概鈍すぎるんだけれど、僕はなんだかこの音楽が、主人公(プレイヤー)の気持ちを表現したものではなく、主人公の幼馴染である花嫁候補の一人ビアンカの気持ちを表現したものなんじゃないかと思い至り、弦楽器の優雅な音に耳を傾けながら、感傷に浸ってしまった。

ゲーム内でも花嫁候補二人の心理描写の対比は如実に表現されている。前夜、ベッドの上でスヤスヤと眠るフローラに対し、ビアンカは「なんだか眠れないの」と呟き、別宅の窓から夜空を見上げる。

セリフの節々やフローラを選んだ際も独身を貫くなど、ビアンカが主人公に恋をしているのは明白。しかし、万が一にもその気持ちを主人公に打ち明けてしまったら、彼は純粋に花嫁を選ぶことができない。(ビアンカは主人公に恋をすると共に、一人の人間として愛してもいた)

自分のことを選んで欲しいという乙女心と、主人公に幸せな道(本当に好きな人)を選んで欲しいという幼馴染としての思いの狭間で、様々な葛藤が起こっていたことは想像に難くない。

そして、主人公はあくまで選ぶ側の立場。おまけに、どちらを選んでも良妻に恵まれるのは確約されているのだ。こんな贅沢な悩みを葛藤などと呼んでいては、全国のモテない男どもから呪い殺されても文句は言えないだろう。

よって、この晩、最も心揺れ動いていたのは、フローラにあらず、無論、主人公でもプレイヤーでもなく、ましてやルドマンでもあるはずがない。

ビアンカだったのだ。

そう考えると、この音楽の題名が『愛の旋律』と名づけられているのにもしっくりくる。

などと、ビアンカ派の僕は勝手な解釈を頭の中で巡らせながらこの音楽を聴いた。すぎやま先生も、まさにそういう視点で作曲していたのだとしたら、かなり嬉しいけれど、流石に無理やり過ぎる解釈だろうか……

 

少し長いので、次回に続きます。

約15年ぶりにプレイするFFX

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前々から欲しいと思っていたFFXのHDリマスター版。夏のセールでDL版が半額になっていたので、迷わずに購入することに。

 

ハイクオリティなCG技術と重厚な世界観、当時CMで何度も流れたシーンをはじめとした胸が高鳴る数々の名シーン。そして何よりもシリーズでも屈指の悲劇的な結末を辿る物語でもある。

 

 

美麗なCGの数々

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ヒロイン、ユウナの初登場シーン。厳しい試練に耐え抜き、滴る汗を振り払うユウナ。鎖骨を伝う汗に色っぽさを感じるのが、このCGのレベルの高さを物語っている。

 

 

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二枚目はルカの街に到着するシーン。中央の球体の建物はブリッツボールのスタジアム。この一枚だけで、ご飯三杯はいけそうな程にワクワクを感じさせるCG。素晴らしい。

 

CGによるムービーをはじめとし、細かな部分まで丁寧に作り込まれているからこそ、虚構の現実をリアルなものとして体感することができる。

 

自分が成長することで気づく色々なこと

物語序盤の段階では、召喚士(ユウナ)が辿る結末に付いてはプレイヤー(ティーダ)には伏せられている。なので、それを知っている前提で再度プレイすると、節々で各キャラクターが抱えている葛藤が垣間見える。

 

あるいは、主人公ティーダが抱えている父親に対するコンプレックスや子供っぽさ(無理に強がったり、いじける態度を表に出してしまう)に気付かされたり、当時は理解できなかったルールーの魅力に気付かされたり。

 

当時は何も考えずに進めてたところで、一歩立ち止まって考えてみる。探索してみることで新たな発見が起こるのは、人生と同じで面白い。

 

最後に

なんだか久しぶりに延々とゲームをプレイしていられそうな感覚に陥った。

 

シナリオの続きもある程度把握しているはずなのに、どんどん先を進めたくなる。そろそろ辞めなければいけないと頭では理解しているはずなのに、ついついもう少しだけやろうとなる。

 

 

これが起こる時っていうのは、大概ものすごくゲームの世界に没入している時だ。ゲームの世界が作り物ではなく、本当に存在しているかのような感覚に陥り、どんどん次を進めたくなる(他人事ではなくなっている?)。

 

そう考えると、RPGを楽しむために必要なのは、「その世界が実際に存在しているように感じられる心」なわけで、大人よりも断然子供の頃の方が楽しめる確率が高い。

 

大人になるとゲームが昔ほど楽しめなくなるのは、そういう部分に起因しているのかもしれない。逆説的に言えば、目一杯楽しみたければ、童心に還れと言うことになる。(だからこそ思い出補正のかかるゲームは面白い?)

 

大人になっても童心を忘れずに、人生もゲームも、何ごとも楽しみたいものだ。

 

 

 

 

久しぶりに、夏風邪を引いた

 

夏風邪の厄介さ

夏風邪を引いたのは、果たしていつ以来のことだろうか。

 

風邪を引くと、当然熱が上がるわけなんだけど、夏に熱が出ると結構厄介だったりすることに気がついた。

 

冬はストーブなどで部屋を暖めて布団に潜り、とにかく身体を温めるように努めて眠れば良い。ところが夏はクーラーを付けていないと寝れないくらいに暑く、それなのにクーラーを付けると身体が悪寒を感じてゾクゾクと寒気がする。脱水症状を起こしかねないくらいに汗をかいているにも関わらず、クーラーから吐き出される冷気がまるで心地良く感じられない。

 

身体が矛盾を引き起こし、クーラーを付けては切り、切っては付けるを繰り返していた。(これってうちのクーラーが古くて調整機能が弱ってるせいもあるのだろうか……)

 

共有できない主観の感覚

いきなりな問いかけではあるけれど、幸せって、そもそもなんだろうか?

 

毎日健康に過ごせること、好きなことを思いっきり楽しめること、美味しいものをお腹いっぱい食べられること、大切な人と一緒にいられること。

 

その形とか定義だとかは人それぞれ違う。

 

近年、僕が気づいた幸せの形の一つに他人との共感覚というものがある。これは、仏教でいうところの自他の境がなくなるというものに相当するだろうか。(ちなみに僕は仏教の教え自体は良いことを言っていると思うし、教訓にはするけれど、宗教自体を信仰してはいない)

 

例えば、団体競技の連携プレーがスムーズにとれただとか、音楽のセッションが上手く演奏できただとか、あるいは美味しいものを皆で囲んで食べたり、同じ映画や漫画や小説を見て同じように感動できた瞬間、人は心地良さを感じる。

 

別々の意思を持って生きている人間が、ある瞬間、ある一点で繋がる感覚。それが一つの幸せなんじゃないかなと。

 

それを念頭に置いて、風邪の話に戻す。

 

風邪と一括りに言っても、その症状は様々なわけで、みんながみんな全く同じ風邪にかかるわけではないし、仮に同じ風邪にかかったとしても、どのくらいしんどさを感じるかは人それぞれ。

 

だから、結局、自分の身体の感覚って、自分自身にしか分からないんだなぁっていうのが僕なりの見解で、身体がしんどくなった時(風邪に限らず)っていうのは、他人との乖離を感じやすくなる瞬間なんじゃないだろうか。

 

そもそも、身体がしんどいからイライラしているってことは当たり前なんだけれど、それ以上に周囲が楽しそうに笑ってることに対して、すごく疎外感を覚えたりだとか、自分と他者の意識が大きくかけ離れているかのような感覚に陥りやすい状態にあるように思う。

 

これって身体だけじゃなくて、心に関しても同じようなことが言える。精神的に参ってたり、ちょっと病んでたりすると周囲と上手く溶け込めなかったり、他人と自分は決して相容れない存在なんだと思い込んでしまったり。自他に壁を作ってしまう。心と身体は密接に繋がっているから、心身の健康ってやっぱり大事だなって思う。

 

最後に

と、せっかく風邪にかかったのだから、風邪にかかった時にしか感じられないこと、考えられないことを書き記してみた。

とにもかくにも、喉元過ぎればなんとやらというやつで、風邪なんかの短期的な体調不良っていうのは、その瞬間は結構苦しんだはずなのに、一月も経てばそのことをすっかり忘れていたりするのだから、良くも悪くも人間っていうのは都合良くできている。

 

ちなみに僕の風邪は、祖母に移った。

 

よく、風邪は他人に移すと治りが早くなるというが、そんなことはないように思う。現に、医者にかかってから一週間経つというのに未だに僕の鼻はグジグジと言い続けている。まぁ、夏風邪は長引くとも言うから、もしかすると多少は治りを早めてくれたのかもしれないが。(そうでも考えないと、移された方が報われないから迷信ができたのかもしれない)

 

しかし、いかんせん祖母も80半ばの老体なので、少し心配ではある。その一方、風邪は移すことができるから、ともすればしんどさの共有ができるのだな、などと考えてしまったりもしている。

 

ツレがうつになりまして

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あらすじ

主人公の晴子(宮崎あおい)は少女コミックにのらりくらりと連載を続ける漫画家。のらりくらりなので、収入はさほどないし連載もしばしば打ち切られる。そんな彼女を支えてくれているのは最愛の夫である通称ツレ(堺雅人)。会社ではバリバリ仕事をこなし、自宅では家事全般を担ってくれるスーパー夫のツレにより、晴子のノンビリとした漫画家生活は成り立っていた。そんなある朝、ツレがキッチンナイフを片手に「死にたい」と言い出した。心療科で診察を受けたツレは鬱病と診断され、夫婦の壮絶な闘病生活が始まる。コミックエッセイ原作の映画。

 

鬱病にかかる原因の考察


鬱病は文明社会が抱える病の一つ。発展途上国やあるいは田園が広がるのんびりとした田舎の環境下では発症しづらい。

近代化が進むと同時に、資本主義の流れで競争が激化することにより他者との比較機会が著しく増加することが要因の一つと考えられる。また、自然と触れ合う機会の減少や対人関係を主とする諸々のストレス過多、一日一日を振り返る余裕のない切迫した日々の積み重ねなどの様々な理由が重なって鬱状態に陥る。
真面目、神経質、几帳面、融通が利かなかったり責任感の強い人ほどかかりやすい。
作中でもツレの神経質で几帳面で、真面目すぎる一面が嫌というほど描かれている。(例えば、毎朝お弁当を作って持っていくようにしている、曜日ごとに付けるネクタイを決めている、苗字の間違いに異様なまでに固執する、文字幅を定規で測りながら手紙を書く、平日に昼寝することに対して異常なまでに罪悪感を抱くなど)

 

心が見えない厄介さ

 

原作が出版されたのが2006年頃ということで、少なくとも作者達が闘病していたのはそれ以前ということになる。今ほど鬱病に対する認知が広がっていない時代。映画にもあったように、多くの誤解や偏見に晒されたのだと思う。鬱は甘え、という認識が未だに蔓延っているように、心の病は目に見えないからこそ厄介だったりする。特に近年は新型鬱の影響で旧来型の鬱病も一括りに混同されたりするのもややこしさに拍車をかけている。どこからが病気で、どこまでが気分が落ち込んでいるだけの状態なのか、素人目には判断がつきづらい状況。心は見えないから厄介なのだけれど、しかしながら、見えないおかげで人間社会が成り立っているという側面もある。

 

印象に残ったシーン

 

ツレが会社を退職したことにより、家計を支えなければいけなくなった晴子は編集部からイラストの仕事を回してもらう。納期が間近に迫り、寝不足でイライラしている最中、ツレに苗字の間違いを訂正をするようしつこく念押しされた晴子はついツレにきつく当たってしまう。

 

 

身近な人との喧嘩はいつだって、後から思い返せば取るにも足らないような些細なことから始まる。そして、人間、余裕がなくなると自分のことで手一杯になり、ついつい人を気遣うことを忘れてしまう。逃げ恥のヒロインみくりも、同じような出来事で自己嫌悪に陥っていた。

 

晴子の放った一言はツレの心を容赦なく刺殺した。ツレは風呂場に引きこもり、水のシャワーを浴びながら、ドアノブにタオルを括り付けて自殺を図る。

間一髪、異変を察知して風呂場に駆けつけた晴子はツレを救出し、冷水のシャワーが降り注ぐ中、ツレを抱きしめて謝罪する。

 

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果たして、僕が晴子の立場だったとしたら、同じことができただろうか。いつどのタイミングで爆発してしまうか分からない爆弾を抱えながら生きるような生活。晴子なりに散々ツレにお世話になってきたことや描写させていない年月の積み重ねがあるのだろうけれど。生半なことではないからこそ、このシーンには夫婦の愛や絆というものが凝縮されていたように思う。この物語は鬱病の認知を訴えかけると共に、夫婦愛を描いた物語でもある。

 

最後に、自分なりの鬱病対策

 

作中では、鬱病は誰もがかかる可能性のある心の風邪と表現されている。僕自身、鬱病にかかっていたわけではないのだろうけれど、非常に落ち込みやすく、憂鬱を抱えやすい性格なので決して人ごとではない。

映画の最後で、鬱から回復したツレが鬱病との付き合い方について講義するシーンがある。僕も自分なりに考えてみた。

 

・先入観や固定観念を捨てる。(こうしなきゃいけないとか、こんなことしていると世の中に申し訳がないなどという非論理的で実体のないものに惑わされて自分を追い込まない!)

 

・他人と比較せず、自分の短所も自分の一部なんだと受け入れ、自分らしく生きることを肯定する。(あなたを縛っているものが唯一あるとすれば、それはあなた自身だ!)

 

・人間はそもそもいい加減なものだという認識を持ち、そのいい加減な部分を笑ったり、愛したり、許せるだけのユーモアを持つ。(笑いは余裕から生まれ、余裕が笑いを生み出す。笑えるとは素晴らしいことだ!)

 

以上、三点。

 

人生には地図もなければ絶対的な正解も存在しない。

 

だから、時に迷ったり不安に押し潰されそうにもなる。立ち止まったり、目の前の問題から逃げてしまうこともある。

 

けれど、それでも、またゆっくりでいいから、歩きはじめれば、違った景色や新しい物が見えてくることだってある。

 

そうやって、迷いながら、時に立ち止まりながらも、一歩ずつ前進を繰り返し、自分の人生を振り返って、そう悪くもない人生だったなと思えれば、それは幸せな人生を歩んだ、ということなんじゃないだろうか。

 

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七夕

もうすぐ七夕の季節ということで、トレーニングジムのある建物のエントランスホールに短冊が飾られていた。

 

以前までの僕なら、素通りするところだけれど、どんな願いが飾られているのか気になり、ふと足を止めてみることにした。

 

人々の欲望が渦巻く短冊。などと表現すると、ものすごく業が深くなるけれど、実際に飾られている短冊のほとんどが子供の吊るしたもので微笑ましく見ていられる。

 

そして、これが結構面白い。人の性格を表す一つの指針は願望であると言える。数多く存在する人間の欲求。そのバランスが人物の特色を担っていると言っても過言ではない。

 

しかし、とりわけ大人になると公に欲求を吐露するのは憚られる。特に大人になるほど肥大化していく金欲、肉欲、出世欲などは、多くの場合、忌避される対象なので、なかなか本音は見えてこないものだ。

なので、短冊に吊るしてある願い事の大半が(というかほぼ全てかもしれない)子供の書いたものだったりする。

同じ金銭欲でも、平がな混じりに拙い字で『宝くじにあたって10おく円がもらいたいです』と書かれているのが微笑ましく感じ、子供は素直で良いなぁと感じさせられるのはやっぱり子供ならではのキャラクター性が作り出すものなのだろう。

 

他にも『世界一のサッカー選手になりたい』や『かみのけ屋さん(恐らく美容師か理容師のことだと思われる)になりたい』、『〇〇くんと付き合えますように』などといったちょっと色気づいたものから、家族の健康と幸せを願うものまで、枚挙に富んでいて飽きることがない。

 

中には子供らしくないような願い事もあったりするのだけれど、とりわけその中でもシュール過ぎて思わず写真に収めてしまった一枚をアップしておく。

 

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短冊の主が彼なのか、あるいは彼女なのか見当もつかないが、こんな切実過ぎる願い事を子供が短冊に書かなければならない世の中が心配になると同時に、短冊の主とさんまの間にどのような因果関係があるのか非常に気になる一文だ。

 

とりあえず、僕は、この短冊の主がさんまを食べ、生きぬいてくれていることを願うことにする。

 

小さな親切、大きなお世話現象

良かれと思ってやったことが相手の怒りや反感を買ってしまうという経験、現代人なら多くの人があるんじゃないだろうか。

 

恐らく多くの人が被害者になり、時に加害者になっている。

 

これは普段から感じていることなんだけど、ここ最近の外食の際、僕の苦手なタイプのドレッシングが、さも当たり前のようにサラダにかけられている場面に度々遭遇し、ああこんな所にもあったなぁ「小さな親切、大きなお世話」と、ふと思ってしまった。(ちなみに自分はフレンチやごまなどのドレッシングが苦手。有無を問わずかけられている場合、大概どちらかのタイプであることが多いのは気のせいだろうか……)

 

もちろん、ドレッシングがかかっている  かの確認をしなかった僕にも落ち度があるので、文句など言わずに食べたることにした。店側としてはドレッシングをかけずにそのまま出す方が楽なわけだし経費も浮く。だから、これは店側の親切心であることは、おそらく間違いない。

 

ただ、これは、相手の立場になりきれていない店側の配慮のなさでもあるはずだ。中には僕のように和風やイタリアン系のものを好む人もいれば、ノンオイルじゃないとかけて欲しくないという人、はたまたドレッシングだろうとマヨネーズだろうとソースだろうと何だろうとかけてたまるかという人もいる。

 

結局のところ、この良かれと思ってやったことが相手の怒りや反感を買ってしまう「小さな親切、大きなお世話」現象は、自分を基準に行動し、相手の立場に立つという視点を疎かにしていることから起こる。

 

とりわけ現代は、昔に比べて価値観の多様化が進み、皆の考えていることに大きな隔たりができている。悲しいけれど、自分にとって有り難いことが、他人にとってもそうであるとは限らないのだ。


もちろん昔だって、こんな齟齬の一つや二つあったのだろう。人間はそれぞれの独立した思考と意思の元に動いているのだから、当たり前だ。

けれど、的外れだろうと相手の善意を汲み取ってあげられる余裕が昔の人達にはあったのだと思う。様々なことに対する許容が狭くなりつつあるストレス社会では、些細なことが人間関係のトラブルの引き金になり兼ねない。

 

なにより、この問題の根深いところは、親切をする側の労力が親切を受ける側の不幸に繋がっているというところにあると思う。客観的に見れば、お互いにLose Lose の状態だ。とりわけ、元を辿れば善意から発進されているため、簡単に無下にするわけにもいかない。無下にすると罪悪感に近い不快感(恐らく些細なことを許容できなかった自分に対する失望や諸々)を抱き、かといって甘んじて受け入れればそれもまた何かしらの不快を被ることになる。

 

なんだか、ここに、人間関係のジレンマが凝縮されているような気がした。

そして自分自身も無自覚のうちに、誰かに大きなお世話を押し付けてしまっているんじゃないかという泥沼思考。悪循環。疑心暗鬼。

 

考え過ぎは良くないので、深くは悩まないようにしよう。悩むことも時には大事だけれど、それ以上に行動することが大事だ。

 

この問題を解決するためにできることは、相手を変えることではなく、自分の考えや行動を見直してみること。親切をする時は相手の立場に立って行動し、親切を受ける時は相手の立場に立って善意を汲み取る。

 

機転と余裕の両方を持ち合わせた、ハイブリッド人間になりたいものである。